琉球の城(グスク)にはなぜ聖域が存在するのか?本土出身の神主が聖域に君臨した琉球支配者の思想に迫る。
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| - | 2012.10.28 Sunday | - | - |
渡し船と歴史と私

23日の休日、義父に誘われ、初めて渡し船で防波堤に釣りに出かけた。
私は、釣りはまったくの初心者だが、義父は地元でちょいと有名な達人。
「何も持ってこなくていいよ」の一言に甘え、
義父の竿で、義父の仕掛けを義父の指示するポイントに足らし、
唯一持参したクーラーボックスに大量の魚を詰めて帰った。


【釣果】

義父によると、これでも今日は少ないというのだから、笑ってしまう。
非常に楽しかったが、まったく自分で釣った気にならない(笑)


ところで、渡し船で、興味深い光景を目の当たりにした。
小さな船に乗船する客は、我々以外にもたくさんいたのだが、
その一般客が、他客の荷物の積み下ろしを当然のように手伝うのだ。

当然のようなのは、手伝ってもらう側も同様。
何も言わずに船上の一般客に荷物を預け、運んでもらって、礼も一切ないのだ。

このような態度、普通の生活の中ではかなり無礼に当たるだろう。
しかし、その渡し船の中では、手伝う・手伝われるの関係が、
礼無しで当然のこととして成立していたのだ。

私は、一見チンピラ風なお兄さんたち(お前が言うな)が、率先して動く姿に感動した。
いや、それ以上に、こんな小さな船の中でさえ、人間の素晴らしい協調性・社会性が見られたことに感激したのだ。

「そんなことで感激するか?」

と言われるかも知れない。
確かに、大半の人にとっては、取るに足らない小さな出来事だろう。
しかし、私は、曲がりなりにも歴史研究に携わっているので、こんなことを考えてしまう。


もしも、この小さな船での出来事が、何かに記録されていたとしたら、
300年後のマニアックな歴史研究者は、その古文献をめくり、

「300年前の渡し船の中には、こんなコミュニティが成立してたんです〜」

などと、嬉々として語るのではないだろうか。

何百年も前の普通の生活は、現代人にとって大きな謎・ロマンであり、
数百年後の未来人にとって、我々の小さな日常は、価値ある歴史の1ページであるはずなのである。



ところで、過去の小さな日常が、歴史解明の糸口につながる例は少なくない。

あれは、沖縄県浦添市小湾について書かれた『小湾字史』だったと思うが、
その昔、尚家(王族)の別邸が小湾にあり、それについての貴重な情報が、
当時いたずらで敷地に侵入した子供(もちろん今はおじいちゃん)から得られたというのだ。

悪事は時代を超越する。

他にも、かなり面白かった例を上げれば、兵庫県に圓教寺という、映画『ラストサムライ』のロケ地としても有名な寺があるのだが、
お堂への落書きが酷い所があり、そこには
「らく書は 末代の 恥」
と立札されていた。ところが、さらに奥に行った堂内の柱には、
「羽柴小一郎(秀長)の家臣の落書あり」
と書かれていたのである。
たくまの旅日記 「円教寺〜末代の恥編」 参照)

現代の恥が、末代には貴重な資料となる可能性を示唆する好事例である(笑)。


「現在の価値観は、超時間的に考えると、必ずしも正しいとは限らない」


誰もが口にする言葉だが、深いところでそれを理解するのはやはり難しい。
特に、感情的になったりすると、正しいのは自分と思いたくなるのが人情だ。

昔、歴史研究の同僚と口論になり、「100%お前が悪い」と言われたことがある。
「100%」という言葉を使うあたり、こいつは歴史家としての資質に欠けているなんて当時は思ったりもしたが、
今考えれば、その自分の価値観も、同様に「100%」だったのだろう。

若気の至りで恥ずかしい過去だが、それさえも、時間は温かく包み込んでくれる。
弱くて情けない自分を、超時間的に赦してくれる。
そう考えると、ちっぽけな自分が、ちょっとはましな人間になった気もする。


取りとめのない話になったが、小さな船の小さな出来事が、小さな自分の励みになったとさ。
めでたしめでたし(笑)

| いろいろ | 2011.11.24 Thursday 01:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
「日本人」のあり方
最近、「日本人は素晴らしい!」という声が、海外のあちこちから聞こえてきます。
言われる側の日本人には、

「やっとわかってくれたの?」

「別に、ふつーにしてるだけなのに」

など、さまざまな反応がみられますが、気分を害している人はほとんどいないことでしょう。

私などは、日本の文化・伝統、日本人の気質にとても誇りをもっているので、
海外からの評価を受けて「それみたことか!」という気分でした。


みなさんはどうか分かりませんが、私の育ってきた環境はどうも欧米に対してコンプレックスをもつ雰囲気が蔓延していまして、留学生や帰国子女という肩書をもっているだけで「すごい」と評価されたり、英語の授業で「わかりません」と答えたら、欧米かぶれの先生に「アメリカでは『わかりません』なんていう生徒はいない」と説教されたり。
海外に滞在した経験の乏しい私などは、なんで海外に行ったことがないくらいでこんなに自分のことを情けなく思わないといけないんだろうと感じたものです。

しかし、いま、チャンスが来ています。
日本人が、もう一度日本人を見直し、自信を取り戻すチャンスが。
未曾有の災害から一丸となって復興していく中で、日本人の新たなアイデンティティが築き上げられていくことでしょう。


ところで、このような流れを歓迎する一方で、私には、ふたつの危惧があります。

ひとつは、日本人の自信が、「外国人よりも優れている」といった相対的な自信に陥ってしまうことです。
海外の日本人への評価は、「自分たちの国であれば暴動が起きているはずだ」といった形でなされています。
自国民と日本人を比較して、日本人を讃えてくれているわけです。
しかし、讃えられる私たち日本人が、外国人よりも優れていると考える必要はありません。
多少の強盗があっても暴動という程にはならない。これは日本人にとっては普通のこと。
これまで、「個性をつぶす」と酷評されていた全体主義的日本社会は、非常事態においてはこれほどの統制を発揮する側面をもっている、単純にそれだけのことなんだと思います。
海外からの賛辞で取り戻すべき日本人の自信は、海外より優れているという点ではなく、個人主義的な面で欧米より遅れているからといって、日本社会そのものが劣っているわけではないという点にあるのではないでしょうか。


いまひとつの危惧は、加熱する「日本人」というアイデンティティが、日本に住む個を抑制してしまいすぎることです。

日本社会が、その社会の一員に、「日本人」であることを強要してきたという歴史的事例は数多くあります。
現在も「日本人」の一員である琉球人やアイヌもその被害者と言えるでしょう。

「日本人」の強要による悲劇は、琉球やアイヌといった明らかに日本の外にいた民族に限らず、本土に住む日本人のなかでもありました。
有名な例を挙げれば、白虎隊の生き残り飯沼貞雄さんの件があります。

白虎隊は、ご存知のように、十代の若者で構成された会津藩の一部隊で、攻め寄せる明治新政府軍と戦いました。
健闘むなしく敗れた白虎隊は撤退するのですが、飯盛山ですでに城が落ちているのを目撃し、全員その場で自刃してしまいました。
飯沼さんは、喉を刺し気管に穴が開いたにも関わらず、奇跡的に救われた白虎隊の生き残りでした。

その後、白虎隊は、軍国主義に向かう日本において、藩のために命を捧げた忠臣、引いては「日本人」の鑑と讃えられるようになりました。
そのような時世の中、飯盛さんを非難する声が出てきます。
白虎隊の隊員がみな自刃して果てた中で、生き残った飯盛さんは卑怯者というレッテルを張られたのです。
当時の社会の「日本人」はこうあるべきという一般通念が、飯盛さんという個を迫害したのです。
たくまの旅日記「忠臣白虎隊」参照。)


近代の日本のこのような雰囲気は、現代でも失われていないと私は感じます。
海外の紛争地域で被害に遭った日本人に向けられる自己責任論、競技後のインタビューで執拗にみなに感謝する(させられる)アスリートたち。
近代日本にみられた社会と個人との距離感は、潜在的に今も残っているのではないでしょうか。

もちろん、こうした日本・日本人のあり方を一概に悪いとは言いません。
むしろ、私は、冒頭で述べたように、この全体主義的な性格こそが、日本が世界に誇る長所だと思っています。

大災害に立ち向かい一致団結する中で、恐らく日本人は、より全体主義的側面を強めていくでしょう。
個々が全体のために我を捨て貢献する社会、日本人であるからこそ築き上げれる素晴らしいものです。
あとは、その全体が、個人にどれだけ寛容でいられるかです。
飯盛さんのような被害者を二度と出さないためにも、より進化した日本的全体主義的社会が実現されることを願って止みません。



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| いろいろ | 2011.04.07 Thursday 11:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
海外から被災地へのメッセージ

遠く離れたヨーロッパでも、・東北関東を応援する声があります。

「フランス人からのメッセージ」
http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=80

「欧州から呼びかける日本代表達」
http://terre-ciel.jugem.jp/?day=20110315


どちらもの記事も、在仏日本人takezoさんのブログ「スピリチュアルだがマテリアルな日々」のものです。

| いろいろ | 2011.03.16 Wednesday 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
運命の出会い

私、ずっと探していました。

でも、まさか、本当に出会えるとは・・・
いや、よしんば出会ったところで、お付き合いすることは適わないだろうと思っていたのですが・・・


これが、今日めぐり合った運命の方です。


s-P1010285.jpg


その名も「ジャワビロウ


s-P1010286.jpg


「ビロウ」と言えば、ご存知の方も多いと思いますが、沖縄では「クバ」と呼ばれる植物です。

沖縄においてクバは非常に神聖な木で、琉球王国時代から神の降臨する神木として崇められることもしばしば。
御嶽の名前が「クボウ(クバ)御嶽」だったり、祀られる神名が「コバ(クバ)ヅカサ」だったりするところもあります。

そのクバの写真がこれ。


s-P1010281.jpg


現在の沖縄では、クバの木は街路樹としてよく見かけられます。

私このクバが大好きで、観葉植物として自宅に欲しかったのですが、なにせこの大きさ、とても私の狭いアパートの一室では納まりきりません。
よってほとんど諦めていたのですが、今日、浦添市の58号線沿いのメイクマンに寄ってみると、愛しのあの方にそっくりで、しかもあの方よりも小柄な方がいらっしゃるではありませんか!


s-P1010285.jpg
【↑あの方にそっくりなお方】

「ジャワビロウ」という名からすると、あの方のいとこかはとこか分かりませんが、とにかく親戚であることは間違いなさそう。
即購入いたしました。

誤って神様が降臨してきますように♪


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| いろいろ | 2011.03.02 Wednesday 23:49 | comments(4) | trackbacks(0) |
過酷な発表会
沖縄考古学会の定例研究会で、「城塞的グスクにおける聖域の考察 ―聖域に君臨する支配者―」と題して発表してまいりました。
(発表内容は「グスク聖域の証明」「聖域に君臨するグスク支配者」参照。)

どのような結果になったかというと、一言で「過酷」とでも言いましょうか・・・


これまで発表なんてものとまったく縁のなかった私は、この度初めて“ぱわーぽいんと”なるものを使用しました。わざわざソフトを購入までしたのです。
そして、どうにかこうにか、それなりに満足のいく資料を作成したのでした。

当日、会場はなかなかの人入り。
最近の発表会の中では最も人が多かったそうです。

さすがはグスク。論争は沈静化しているとはいえ、興味を持つ人はやはり多い。
これはなかなかにやりがいがあるぜ。
と思っていたのです。


ところが、

ところが、

ところが〜ぁ・・・


開始直前になって、

「機器不良で、今日はパワーポイントが使えません」


・・・ほへ?

・・・

・・・ひいぃぃぃ!


まさかの宣告。
パニくる頭。

コレハ、ワタクシ、ドウスルベキ?(--;


パワーポイントの重要なページはプリントして配ってあったので、

「と、とにかく、グスクの写真だけでも印刷してもらえませんか!(汗)」

「わかりました!すぐにしてきますんで、もう発表を始めておいてください!
・・・みなさん、今日はパワーポイントでの発表の予定だったのですが、
機械の不備で急遽口頭で発表してもらうことになりました。
それではアラミタマさん、お願いします!」

と言うや否や、担当の方は慌てて事務所へと走り出し、私は一人壇上に取り残されたのでした。

「アー・・・ミナサン・・・コンバンハ・・・」


頭真っ白のまま話し始めると、ふと目に入ってきた友達の満面の笑顔。

・・・そんなに面白いかね、Tつきくん(--;


不測の事態にも関わらず、
「無難に説明できてんじゃん、オレ」
と思っていたのですが・・・

なぜかだんだんと重苦しくなってくる会場の雰囲気。
話が進めば進むほどアウェイ感が強くなってくる。
さながら中東で1点ビハインドのブルーサムライ。

こりゃあ質疑応答が楽しみだぜ(TへT)


約1時間の発表を終え、とりあえずの拍手をいただき、さっそく質疑応答が始まる。

Q「築城と岩への信仰、信仰が先だということですが、同時だということはないんですか?」

A「ないと思います。頂部の岩を残すという形態は本島全域でみられるので、各グスクごとに新たな信仰を生み出したとすれば、これほど共通性をもつことは考えがたいからです。築城前から頂部岩を神聖視する信仰基盤があったとするのが妥当だと思います。」

Q「わかりました。・・・私は築城と岩との信仰は同時だと思っていますが」

な、なるほど?(--;


Q「支配者の居館が聖域になっているということですか?」

A「居館が聖域とみられたかどうかはともかく、元来の聖域の中に居館が建てられたと考えられます。支配者は神格化されていたようですので、支配者の居館もある意味で神聖視されていたと思います。」

Q「・・・居館が聖域なんて考えられない。」

おお、中東の笛(--;


とまあ、様々な質問・意見をいただきましたが、私が自説を考え直さなければならないというような
決定的な批判は出てきませんでした。
多くの方に納得していただくにはいたっていないようですが、とにもかくにも、自説を発表することが出来たということに、とりあえず満足しています。


発表の翌日、私に発表の機会を与えてくださったY氏がわざわざお礼の電話をかけてきてくださいました。
お礼を言うのはこちらの方なのに(--;

お話の中で、来年も発表をしないかと言ってくださいました。
考古学的でない上にほとんどシロートの研究者の私に、本当にありがたいことです。

しかし、それまで研究続けられてるのかなぁ・・・なんて



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| いろいろ | 2011.01.24 Monday 21:58 | comments(2) | trackbacks(0) |
沖縄考古学会で発表します。

本年初の更新です。
年末年始は実家の神社でご奉仕し、
現在は今月21日(金)に開かれる沖縄考古学会の定例会の発表準備に追われています。
パワーポイント初めて使いました。楽しいです(笑)



【伊豆からみた富士】


ところで、考古学会の発表なんですが、内容は決して考古学的ではありません。
本ブログでお話しした「グスク聖域の証明」「聖域に君臨するグスク支配者」をかいつまんでお話しようと思っています。

これらのブログ記事は、拙論「城塞的グスクにおける聖域の考察」(『よのつぢ 浦添市文化部紀要』第5号 浦添市教育委員会文化部 2009年)と「続・城塞的グスクにおける聖域の考察」(『よのつぢ 浦添市文化部紀要』第6号 浦添市教育委員会文化部 2010年)を基にしております。

もともとこの拙論は、グスクの聖域はグスク時代(12〜16世紀)から存在したことを考古学界に発信することが大きな目的のひとつでした。
というのも、歴史学・民俗学においてグスクは古くから聖域であったというのはもはや通説なのですが、物証を旨とする考古学において、目に見える形で存在を確認できない聖域をグスク時代にさかのぼって証明することは難しく、グスク聖域説に対して慎重な態度が根強く残っているからです。

この度、ある考古学会の心ある方に発表の機会を与えていただきました。
本当にありがたいことです。

私の、問題解決のためには歴史学・考古学・民俗学などの方法論にこだわらない、いわゆるシロートの研究が、考古学のみなさんにどの程度認めていただけるのか、楽しみでもあり、怖くもあります(笑)。

この記事をご覧のみなさまも、もしお時間がございましたら私の発表を聞きにきてください。
1月21日(金)、19時〜
埋蔵文化財センターにて、です。

いまさらですが、本年もよろしくお願いいたします。


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| いろいろ | 2011.01.19 Wednesday 23:02 | comments(4) | trackbacks(0) |
重箱の隅はない

先日、とらひこさんこと上里隆史氏が運営する『目からウロコの琉球・沖縄史』のブログにコメントさせていただきました。
その内容は、書いた方も書かれた方もあまり気持ちの良いものではない、過去の記事に対する批判です。

(『目からウロコの琉球・沖縄史』の記事、「グスクに眠る怪死者」「琉球歴史イラスト(6)」参照)


私がとらひこさんに歴史記事の訂正を求める内容が主だったのですが、このブログの中で、私は、「重箱の隅をつつくやっかい者」と複数の人に指摘されました。

(とても重要な議論をしているつもりなのに、私の問題意識は彼らに伝わらない。
・・・いや、そもそも、私の問題意識とは何なのだ?)

ただでさえ雰囲気を悪くする批判コメントなので、なるべく失礼のないように私なりに礼を尽くしてコメントしていたのですが、それが逆に、私自身の本音を自分で隠してしまうことになっていました。


私がなぜあの記事の批判に執着してしまったのか。
それを気付かせてくれたのは、忌々しい(笑)私の大親友Kくんでした。

以下、当ブログの記事「グスク(聖域)から生活遺物が出土するのはなぜ? その1」のコメント欄で、私が自分の本音を思い出すきっかけとなったKくんとのやりとりです。


親友K

おいっす。久しぶりー元気?

あのさぁ、琉球歴史のことはよくわからないけども、コメントするの悩んだりミスは仕方ないとか言いながら、あの2つの記事に限って批判するのはなんで?
そんなにひどいミスだった?
袋叩き(笑)にあってなかったら他の記事も批判してた?
はっきり言ってお前の意図が読めない。
あれは重箱の隅つつきだな(笑)


アラミタマ

久しぶり!元気よ。
ちゅうか、頭悪いくせに、相変わらず勘だけは良いやつじゃな(--;

>コメントするの悩んだりミスは仕方ないとか言いながら、あの2つの記事に限って批判するのはなんで?
そんなにひどいミスだった?

ぶっちゃけると、オレのコメントにはふたつの意味がある。

まず、ブログの特性を使って早く広く歴史を伝達するとらひこさん(ブログ主)の仕事は非常に有意義である、これ大前提ね。

しかし、ブログには当然欠点もある。
それは、間違いも早く広く伝えてしまうこと。
(とらひこさんはとても有名な歴史家で、ある意味、今の沖縄の歴史界に最も強い影響力を持っているとも言える人物)
ブログの長所も短所ももろに出てしまう訳ですわ。

ほんで、オレがコメントいれた大きな理由の一つ目は、情報発信する歴史家に、情報の真否に対する緊張感を持ってもらいたかったから。

2つの記事に限定してコメントしたのは、あの2つの記事の情報源がオレの職場が刊行している資料だから。
オレから見れば、あの記事は明らかに不適切な表現。
正直、自分の畑を荒らされた気分もある。
もちろん、資料を使ってどのような発言をするかは情報発信する人の自由。
でも、情報源に関わる人やその専門の人たちは、常にシビアな目で見ている。

とらひこさんのブログの中では重箱の隅の問題も、その人たちにとっては、毎日汗水流して研究・収集した貴重な情報な訳で、まさに重箱のど真ん中なのよ。
それを重箱の隅扱いされるのは、正直あまりおもしろくない。

つまり、「重箱の隅」も丁寧に扱う緊張感を持ってもらいたかったってことね。
これが一つ目。


二つ目は、有名な人でもミスをすることはあるということを、情報受信する人たちに分かってもらいたかったから。
これはもうそのまんま。


ちなみに、茶太郎さんて方が、なぜわざわざとらひこさんをターゲットにするのかって仰ってたけど、オレは、自分の職場に関わる情報を誤まった使い方してる方には、その都度コメントしてるからね。




つまりは、私は、自分の畑の情報が軽く扱われているような気がして、それを訂正して欲しかったのです。


なぜ今になってこのようなことをわざわざ記事にするのか?
それは、研究者が、ひとつの歴史像を生み出すのにどれだけの苦労を重ねているかを想像してもらいたいからです。

たとえば、とらひこさんのブログで紹介された浦添グスク出土の女性人骨。
これは地表から2m40cmほど深くに埋まっていたわけですが、それが発見されるまでにどれだけの人の、どれほどの汗水が流されたかを考えてみてください。
また、発掘は掘り出して終わりではありません。
記録に取って人に報告できる形にしなければなりません。
記録のひとつに実測図の作成がありますが、浦添グスクの女性人骨が出土した時代はまだ機械的な実測はできません。すべて手作業です。
狭い穴に大きな画板を持って入りこみ、人骨と向き合いながら、骨のひとつひとつを正しい尺で紙に落としていく難儀で時間のかかる仕事を想像してみてください。


とらひこさんが参考になさった資料は、こうした多くの人の大変な苦労の上に成り立ったものなのです。

私がとらひこさんに求めた訂正は、彼のブログの中においてはひとつの小さな記事の些細な一言です。
しかし、その一言は、多くの人が汗・泥にまみれ何カ月もかけて生み出してきた、とてもとても重いものなのです。


誰にも資料の読み違いはあります。
とらひこさんもそれを認め、訂正してくださいました。
しかし、それを「重箱の隅をつつく」指摘だというのであれば、それは、資料を作り上げた人々の仕事に対してあまりにも失礼なのではないでしょうか?

私は、歴史情報を発信する人たちには、情報を生み出した人々に対する尊敬・緊張感を抱いてもらいたい。
受信する人たちには、ひとつの情報に大変な時間と労力、下手をすれば人の人生がのっかていることがあるということをわかって欲しいのです。


歴史情報に「重箱の隅」はありません。
情報のひとつひとつが、重箱そのものなのです。


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| いろいろ | 2010.11.27 Saturday 11:03 | comments(22) | trackbacks(0) |
どうでもいい話。

昨日、読谷村にある阿麻和利の墓と伝えられる場所に行ってきた。

県道6号線から折れてちょっと入ったところにあるのだが、
曲がるとこの目印になるのがこれ。





護佐○


・・・


わざとか?(--;



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| いろいろ | 2010.10.31 Sunday 02:53 | comments(3) | trackbacks(0) |
浦添市内文化財パネル展 浦添グスクすげぇ〜

10月28日から11月5日まで、浦添市役所1階ロビーにて、浦添市内の文化財を紹介したパネルと浦添城跡の出土遺物が展示されます。

紹介される文化財は、玉城朝薫の墓浦添御殿の墓中頭方西海道仲間樋川浦添ようどれ浦添城跡です。
浦添市が誇る文化財が、分かりやすく平易に説明されています。


中でも注目は、昨年度の発掘で浦添城跡から出土した貴重な遺物の数々です。
まだ掘り出されたばかりとあって、ほとんどが初公開。
内容は、半分が高麗系・大和系の瓦ですが、いまだ報告事例のない特殊なものも数点あり、ちょっとした展示会にしてはかなり見応えのある内容となっています。



【高麗系鬼瓦の鼻】



【目玉とウロコが表現された瓦 龍?鯱?】


浦添グスクの高麗系瓦の出土量は、首里城を含めた他遺跡に比べて圧倒的です。
少し堀り下げれば多量の瓦を含んだ層が厚く堆積しています。



【浦添グスクの堆積層 黒っぽい板状の物はほとんど瓦】


高麗系瓦の製造は13〜14世紀というので、首里城に王都が移される前、つまりは浦添が王城だったとされる時代の瓦だということになります。

瓦が一般に普及するよりずっと以前、浦添グスクの丘陵に瓦葺き建物が建ち誇る様はさぞかし壮観だったことでしょう。
ああ、見てみたかった・・・



【浦添グスクの丘陵 遠景】


(遺物・層序の写真は浦添市教育委員会の発掘調査概報より)


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| いろいろ | 2010.10.28 Thursday 02:06 | comments(4) | trackbacks(0) |
情報発信の責任
10月19日付の沖縄タイムスの文化面に、宮野賢吉さんの「高麗瓦を眼前にして」という記事が掲載されました。

拝読すると、30年くらい前にご本人が浦添城跡から拾ってきた瓦(←良い子は真似しないでね--;)が「癸酉年高麗瓦匠造」の文字のスタンプされた種類の物であることに気付き感動なさったこと、そして、その文字は単なる瓦職人ではなく僧侶によって記されたものであるというお考えが書かれていました。

沖縄では大きく分けて3種類の古瓦が出土するようで、高麗(朝鮮)の技術で造られたもの・大和の技術で造られたもの・明(中国)の技術で造られたものが、それぞれ「高麗系瓦」・「大和系瓦」・「明朝系瓦」と呼ばれており、宮野さんがお話になった「癸酉年・・・」瓦は高麗系瓦のひとつです。

癸酉年・・・」が僧侶の手によって書かれたという実証的な根拠は何も示されていませんでしたが、古来の大和において瓦はもっぱら寺院建築に用いられていたというので、琉球の瓦に僧侶の影を見るというのはお話として大変おもしろいと思いました。


ちなみに、「癸酉(みずのととり)年」とは、十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と十二支(子、丑、寅、卯、辰・・・亥)を組み合わせた年の表し方のひとつで、60年(10と12の最小公倍数)で一回りします。
癸酉年は、1213年、1273年、1333年、1393年とめぐっており、「癸酉年・・・」瓦はこの4つの年のいずれかで造られたと考えられています。


しかし、僧侶の話以上に目を引いたのは、宮野さんが過去に「舜天王のころにすでに首里城は王城であったことを解明した」という文でした。

な、な、なんと!Σ(--;
それが本当だとしたらとんでもない発見ではないですか。

その論は、同じく沖縄タイムスの2002年10月9、10日に掲載されているとのこと。
早速図書館に行って拝読してきました。


今でこそ浦添グスクは首里城以前の王城であったというのは通説ですが、琉球王国の正史では、初代国王舜天(在位1187〜1237年)のときから首里城が王城であったとなっています。
宮野さんの論は、琉球の正史の方が正しいという内容でした。

その根拠は、私の読んだ限り、以下の2点に集約されます。

 癸酉年・・・」瓦は舜天の時代に造られた瓦であり、これは浦添グスクだけではなく、首里城からも出土する。

△修發修眄技砲鯣稟修訓催坤哀好を旧王城と考えた研究者たちの論に説得力ある根拠が提示されていない。


△亡悗靴討蓮∋笋盡朕妖に支持するところですが、逆に、正史が正しいとする根拠も特にありません。
これは、今後の課題となるでしょう。


,亡悗靴討蓮⊂し詳しく説明する必要があります。

高麗系瓦には、「癸酉年・・・」の他に、「」や「大天」とスタンプされているものもあります。
同じ高麗系瓦ですが、「」・「大天」よりも、「癸酉年・・・」の方が若干古いと考えられています。

宮野さんが注目したのは、浦添グスクの北側崖中腹に位置する浦添ようどれから出土した瓦の状況でした。

浦添ようどれは英祖王(在位1260〜1299年)が造営した墓と言われていますが、発掘調査の結果、英祖王の頃のようどれは、岩盤を削って大きな横穴を開け、その中に瓦葺き建物が築かれていたことが分かりました。
15世紀前後に横穴の建物は廃棄され、石造りの墓に姿を変えたと考えられています。



【復元された浦添ようどれ】


宮野さんは、建物が廃棄された跡に残る高麗系瓦は“」・「大天」瓦だけで、「癸酉年・・・」瓦は一点もみつかっていない”ことから、次のように論を展開しました。


英祖の墓に「癸酉年・・・」瓦は使われておらず、それより新しい「」・「大天」瓦が使用されている。


つまり「癸酉年・・・」瓦は、英祖の治世の癸酉(1273年)より古い時代のもの。


すなわち「癸酉年・・・」瓦の癸酉年とは、舜天の時代である1213年を指す。


そして、宮野さんは、浦添グスクだけでなく首里城からも舜天時代の「癸酉年・・・」瓦が出土していることから、首里城は後世に王城として機能し始めたのではなく、舜天の時代から王城であったと結論付けたのです。


しかし、残念ながら、宮野さんはひとつ大きな誤解をされています。
宮野さんは浦添ようどれの発掘で「癸酉年・・・」瓦が一枚も出土していないと仰っているのですが、実際には、癸酉年・・・」瓦の破片が20数点見つかっているのです。
つまり、宮野さんの「首里城最初から王城」説の唯一実証的根拠となっている癸酉年・・・」瓦は、英祖王、あるいはそれ以降に造られた可能性の方が高いのです。


ところで、私が宮野さんの記事を読んで一番気になったのは、いったい宮野さんの誤解はなぜ生じたのかです。

私は、宮野さんが参考になさった論文を探ってみました。
それは、当時実際に発掘に携わった浦添ようどれにもっとも詳しい人物の論でした。
当然、「癸酉年・・・」瓦が出土しなかったとは一言も書いてありません。
しかし、読みようによっては、確かに、「」・「大天」瓦しか見つかっていないようにも受け取れる文章でした。

・・・

新聞記事に関わる一連の論文を読んでいて、私は、次のような問いを立てずにいられませんでした。

明らかに誤った論が新聞で一般に紹介されてしまう状況は、なぜ生じるのか?


見方によって問題はいろいろと出てきます。

まず、宮野さんに誤解を与えた方の文章に問題があると言えばあるかも知れません。
そして、宮野さんは、それが事実であるかどうかを、発掘報告書を読んだり浦添市の文化課に問い合わせるなどの方法で確かめることができたはずであり、またそうするべきであったでしょう。

しかし、それよりなにより、私が特に感じたのは、一連の記事を載せた沖縄タイムスの責任です。


どんな研究者であれ、真実のわからない歴史という分野において、誤った情報を発信してしまう可能性は否めません。
そういった意味で、宮野さんの記事が載せられたこと自体は決して悪いことではありません。
問題は、誤ったものが紹介されたきりで、読者にそれが正しい歴史であると勘違いさせる可能性があることです。

記事を載せた沖縄タイムスには、それが正しいかどうか担当者が確かめたり、紙上で討論させるなどの責任があるのではないでしょうか?

沖縄タイムス紙上では、2002年に首里城が舜天のころからの王城であったことが「解明」されて、現在にいたるのです。


“情報”を商売道具とする人たちには、その真否に対する責任が当然あります。

最近、沖縄の最新の歴史研究を一般に広めることを目的としていると思われる史跡巡りツアーのようなものがあったりしますが、それに関わる方々は、情報を常に最新で信憑性のあるものにするためにどのような企業努力をされているでしょうか?
こうしたツアーが浦添グスクも訪れたりしているようですが、浦添グスクの最新の情報を持っているはずの発掘担当者に、そういった団体からグスクに対する質問や問い合わせがあったとは聞きません。

「自分の持っている情報は誤っているかもしれない」

保身に走らず、常に自分の身を批判の目にさらす勇気がとても大切なのだと思います。


・・・

思うままに書いて、自分の歴史観をブログで発信している己のハードルを一気に高めてしまった気がします。

いや、もちろん、私は、自分の考えに対してどんどん批判をいただきたいとは思っていますが・・・

・・・

お金を取ってまで発信している訳ではないので、お手柔らかにお願いします(--;



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| いろいろ | 2010.10.21 Thursday 12:21 | comments(4) | trackbacks(0) |
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