琉球の城(グスク)にはなぜ聖域が存在するのか?本土出身の神主が聖域に君臨した琉球支配者の思想に迫る。
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| - | 2012.10.28 Sunday | - | - |
グスク論争 その6 ―グスク論争の決着―
仲松弥秀氏のグスク=「聖域(葬所)」説
小島瓔禮氏のグスク=「聖域(山岳信仰)」説
嵩元政秀氏のグスク=「防御集落」説
当真嗣一氏のグスク=「按司居館」説
聖域・集落・城を歴史的展開の中で順序付けた高良倉吉氏の説

60年代から続くこのグスク論争がいまだに決着していない最大の理由は、
現存するほとんどのグスクに聖域がみられるにも関わらず、それらが
いつの時代に遡って成立したものなのか、
実証的に示されてこなかったから
でしょう。



【世界遺産 中城グスク 二の郭の拝所 】

とは言え、「聖域」の存在を証明するのは簡単なことではありません。

文献史料の乏しい沖縄では、グスクが城として機能していた頃の
信仰を伝える同時代史料は存在しません

信仰に関わる遺物がまとまって出土するようなグスクがあれば
発掘から聖域に迫れる可能性もありますが、
残念ながら、グスクから出土する祭祀遺物が注目されることはあまりないようです。


一部の民俗学者の間には、グスク内の墓を発掘すれば
グスク=「聖域(葬所)説」の是非を明らかにできるという
楽観的な見解があるようですが、例え墓が古いことを証明できたとしても、
それが「聖域」という空間をつくっていたかどうかという概念的なことは、
遺構・遺物から判断しようがありません。
「聖域」説の真否を問うには、考古学では自ずと限界があるのです。


このような状況で半世紀近く決着がつかなかったグスク論争ですが、
私が個人的にグスクをいくつか踏査したところ、
グスク聖域がグスク時代にまで遡ることを証明するのは可能である
という結論に達しました。

もちろん、グスクに関しては謎が多く、すべてが解明できるとはとても言えませんが、
少なくとも、グスクが城なのか、聖域なのか、集落なのか、という
大枠の議論に関しては決着を着けられると考えています。


私のグスク論は次回から詳しく説明させていただくとして、
「グスク論争」シリーズは、これで終わりにしたいと思います。


(完)


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| グスクとは? ―グスク論争のあらまし | 2010.07.27 Tuesday 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
グスク論争 その5 ―もうひとつのグスク聖域説―
  「グスク聖域説」と言えば、過去記事「グスク論争 その1 ―グスク聖域説の提唱―」で紹介した
仲松弥秀氏の“聖域の本体は葬所”とする説が一般的です。

しかし、あまり知られていないのですが、葬所以外のグスク聖域説を唱える研究者もいます。
小島瓔禮(よしゆき)氏です。

小島氏の聖域説の特徴は、グスク聖域は山岳信仰に基づいているとしているところです。
沖縄では(なぜか)マイナーな説なのですが、個人的には非常に重要な指摘をされていると思うので、
あえて個別に紹介させていただきます。




小島氏は、仲松氏同様に御嶽とグスクは聖域として同質であることを前提として、

_縄と九州の間の島、屋久島の土着信仰である御岳信仰が、本土の山岳信仰の典型的形態であること
沖縄の御嶽信仰が屋久島の御岳信仰と類似していること
などから

御嶽は琉球諸島に孤立した信仰ではなく、島伝いに九州および本土の山岳信仰とつながるものである
ことを指摘しました。
御嶽を、本土から琉球諸島まで続く山岳信仰の一形態であるとしてダイナミックにとらえたのです。



【今帰仁村 クボウ御嶽 山全体が神体山として中腹から拝まれている】


【クボウ御嶽麓の拝所 神体山を中腹から拝む形態は、本土の山岳信仰の原始的形態と類似】


さらに、城塞的とされる伊是名グスクにおいて
日本各地の山岳信仰の習俗と共通する登拝儀礼が行われている事例を取り上げ、
グスクに城塞と聖域の二面性があることを指摘しました。

では、なぜこのような二面性が生じたのか?
小島氏は、その解決のため「グスク」の語源に注目しました。

小島氏によれば、「グスク」はもともと“石積みや加工ないし利用されている岩山の類”を指す語であり、
城塞、聖域に関わらず、石垣などの石造物が構築されたものが「グスク」と呼ばれたと考えました。
(グスクの語源には諸説あります。)

そして、石垣で造作された山岳信仰の聖域的グスクのうち、政治的、軍事的城郭の立地条件にかなっていたものが城塞的グスクに変遷していったと結論付けています。


ちょっとわかりづらかったかも知れませんが、小島氏のグスク観をまとめると以下のようになります。


・はじめ、琉球には山岳信仰を基調とした御嶽が存在した。

             ↓

・御嶽のいくつかは石垣で囲われ、聖域的グスクとなった。

             ↓

・聖域的グスクのいくつかは、政治的、軍事的に利用され、城塞的グスクとなった。



しかし、小島氏の論において、城塞的グスクの前身を聖域とする前提は、本土の山岳信仰との比較と「グスク」の語源のみを根拠としており、仲松氏の聖域説同様、グスク成立後に聖域が設けられたのではないかという疑問は払拭できません。

「グスク」の語源に関しても、石垣を持たない土で成る城塞的グスクの存在(名護グスクなど)が指摘されており、小島氏の説はなかなか支持を得ていないようです。

(つづく)


参考文献
小島瓔禮「オタケ(御岳)からみた山岳信仰」中野幡能(編)『英彦山と九州の修験道』名著出版 1977年
小島瓔禮「沖縄の聖地 ―グスクとテラと」『現代宗教―3 特集・聖地』春秋社 1980年
小島瓔禮『琉球学の視覚』柏書房 1983年



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| グスクとは? ―グスク論争のあらまし | 2010.07.22 Thursday 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
グスク論争 その4 ―グスク按司居館説の提唱―


【中城村 世界遺産 中城グスク】


グスクは聖域でもなく、単なる高地性の集落でもなく、
地方の首長たる按司たちの居館であった
と、考古学的見地から結論付けたのは当真嗣一氏です。


氏のグスク=「按司居館」説の大きな特徴は、考古学的調査から、
グスク時代にはすでに階級社会が成立していたと考えたことです。
階級社会成立の根拠として、氏は以下の四点を挙げています。

  • 稲作・麦作を中心とする農耕文化の発展が確認できる。

  • 鉄器文化が波及している。

  • 海外貿易が活発化している。

  • 宮古・八重山両先島を含めた沖縄全域がひとつの文化圏に統一されていく時期である。

以上から当真氏は、グスク社会はすでに階級社会の段階に達していたと想定し、
グスクは、「支配者としてはまだ小さい地域豪族たちが、自己の家族を保護する」ために築いたと考えました。 

グスク=「按司居館」説は、原始集落が発展してグスクとなったとする嵩元政秀氏のグスク=「防御集落」説を進化させた論であると言えるかも知れません。


一方で、当真氏は、仲松弥秀氏のグスク=「聖域」説に対する批判もなされていますが、
“グスクには按司が住んでいたんだから、そこに聖域はないでしょ”
といった程度の論調で、積極的根拠には欠けるようです。

しかし、石垣囲いの中に葬所や拝所などが存在するのは紛れもない事実であり、
聖域の成立が居館より新しい根拠、あるいは、
按司の居館と聖域が同じグスク内に並存しない理由を説明しない限り、
グスク=「聖域」説への批判は主観の域を出ないと、私は思っています。
逆に、聖域が按司居館より古い根拠も、これまでの論争の中では示されていない訳ですが・・・


(つづく)


参考文献
当真嗣一「沖縄のグシク」甘粕健(編)『考古資料の見方<遺跡編>』 1977年
当真嗣一「考古学上より見た沖縄のグスク」『紀要』第2号 沖縄県教育委員会文化課 1985年
当真嗣一「グスクと碇石から万国津梁の時代を考える」『第9回アジア史学会研究大会(沖縄大会) 報告講演・シンポジウム アジアの中の沖縄』 アジア史学会 2000年



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| グスクとは? ―グスク論争のあらまし | 2010.07.21 Wednesday 01:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
グスク論争 その3 ―歴史的展開の中のグスク―

【今帰仁村 今帰仁グスク志慶真門(しじまじょう)郭】

グスク論争の中で提示された3つのグスク観、すなわち、 
グスク=「城」・グスク=「聖域」・グスク=「防御集落」は、
それぞれに対立した説として論じられてきましたが、
これら
三つの立場は基本的に矛盾しないとする研究者が現れました。
高良倉吉氏です。

氏は、城・聖域・防御集落の三説は、
歴史的展開の中に位置付ければ対立がなくなると考えました。
つまり、グスク時代の初期には聖域を抱えた防御集落のグスクが存在し、後に、集落が移動し聖域だけになったグスクと、集落が発展し城になったグスクとに展開していったと想定したのです。また、倉庫などの特殊なグスクは、城から派生したものと捉えました。

氏のグスク観をモデル化すると、以下のようになります。




高良氏のグスク観は、現在、もっとも多くの支持を集めているようです。

ただし、高良氏は、聖域説への批判(聖域が古くから存在したことを実証できていない:
「グスク論争 その2」参照)に答えている訳ではありません。
城や集落に古くから聖域が存在したかどうかは分らない、という慎重な姿勢は、今なお考古学の立場に根強く残っていると言えるでしょう。


(つづく)


参考文献
高良倉吉「沖縄原始社会史研究の諸問題 ―考古学的成果を中心に―」『沖縄歴史研究』第10号 沖縄歴史研究会 1973年



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| グスクとは? ―グスク論争のあらまし | 2010.07.19 Monday 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
グスク論争 その2 ―グスク防御集落説の提唱―
 

1961年に仲松弥秀氏がグスク=「聖域」説を唱えてから8年後、グスクの始原は集落であったと言う研究者が現れました。
考古学者の嵩元政秀氏です。


氏は、グスクの出土遺物や文献記載の有無などで、グスクをA・B・Cの3種に分類しました。

A:文献上よりも明らかに支配者の居城として認められるグスク

B:発生、興亡すら文献上、口碑上よりも不明確な点の多い野面積みの石垣遺構をもつグスク

C:グスクと呼ばれながら遺物のみられぬ、又は、出土してもB式の遺物より後世のそれしか出土しないグスク、又、その他特殊なグスク



嵩元氏によると、200余あるグスクの内(正確な数は不明)、大部分はB式に属します。
そして、B式から出土する遺物は生活に関わる物だと考え、B式グスクの実態を以下のように規定しました。

「原始社会の終末期より古代社会に移行する時期頃の防御された又は自衛意識をもって形成された集落」

これがいわゆるグスク=「防御集落」説です。


【浦添市 伊祖グスク 嵩元分類ではB式となる】

嵩元氏の防御集落説は、グスクは城だけではない(A式だけではない)という点で仲松氏のグスク聖域説と一致しましたが、
グスクのほとんど全てが聖域であるとする見解とは大きく対立しました。

嵩元氏は、聖域説に対して、以下のような反論をしています。

・聖域説ではグスク出土遺物を祭祀に関わる物と考えているが、遺物の質・量等から、それらは生活遺物と考えられる。

・聖域説では、遺物の出るグスクと出ないグスクの相違が何であるかの評価がなされていない。

・700〜800年前にグスクが聖域であったという実証的根拠がない。


その上で、嵩元氏は、現在ほとんどのグスクが聖域となっている状況に対して、
グスクの居住者が別の場所に居を移した後に、集落跡が聖域に変質していった
という展開を想定しました。


仲松・嵩元両氏の見解はそれぞれに一理あるもので、互いの説を支持する研究者によって論争が繰り広げられました。
そんな中、両論を時間軸の中で矛盾無く説明しようと試みる研究者が現れます。
高良倉吉氏です。

(つづく)


参考文献
嵩元政秀「『グシク』についての試論 ―考古学の立場より―」『琉大史学』創刊号 琉球大学史学会 1969年
嵩元政秀「再び『グシク』について」『古代文化』第23巻 第9・10号 古代学協会 1971年
嵩元政秀「グスクについて ―仲松弥秀教授の批判に答える―」『南島史論』(二)琉球大学史学会 1978年



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| グスクとは? ―グスク論争のあらまし | 2010.07.17 Saturday 07:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
グスク論争 その1 ―グスク聖域説の提唱―
世界遺産に5城が登録され知名度も上がったため、
沖縄では城のことをグスクと呼ぶことをご存知の方は多いでしょう。
こうした城は、12世紀〜16世紀にかけて、沖縄各地で築かれたと考えられています。

 「城」という漢字を「グスク」と読むため、一般に、グスク=城と思われがちですが、
実は、城でない場所がグスクと呼ばれることも少なくありません。

例えば、那覇市の波上宮(なみのうえぐう)の神様が鎮座する岩山は、
古くから「ハナグスク」と呼ばれています。
ここが城であったといういわれも特にありません。



【那覇市 波上宮の鎮座する岩山 別名、ハナグスク】


じゃあ、グスクって、いったい何じゃ〜

この問題は、実は沖縄ではけっこう古くから議論されており、
一連の論争を俗に「グスク論争」と呼んだりします。
その中で提示された主な説として、グスク=「聖域」説や「防御集落」説、「按司居館」説などがありますが、
いまだどれが正解か決着がついていないとされています。

私自身もひとつのグスク観を持っているのですが、それはここではさておき、
まずは、これまで交わされてきたグスク論争のあらましを私なりにまとめてみたので、
数回に分けてご紹介したいと思います。
ネットで入手できるグスク論争の情報はかなり大雑把で端的なものばかりなので、
このブログでは、なるべく詳しく具体的になるよう試みました。
きっと読みづらいことでしょう。・・・すみません。

では、はじまりはじまりです。。。



今から1950年代まで、研究者の間でも、グスク=「城」観は常識でした。
ところが、60年代に入って、グスクは城ではないと指摘する研究者が現れました。
琉球の歴史や民俗をかじった者なら誰もが知っている仲松弥秀です。

氏は、「『グシク』考」(仲松、1961)という論文の中で、以下のようなグスク観を提唱しました。

「石垣で囲まれた神のいます、あるいは天降る聖所と、神を礼拝する拝所とを一つにした聖域」

詳しく言うと、従来、城の「本丸」とされていたところが御嶽(「神のいます、あるいは天降る聖所」)、「二の丸」と呼ばれていたところが礼拝所で、それらを石垣で囲ったのがグスクであるということです。
これが、いわゆるグスク=「聖域」です。


その根拠として、氏は次のようなことを挙げています。

<グスクが聖域である根拠>
  • グスクの「本丸」とされている部分は、御嶽として村落の信仰を集めている。
  • 御嶽のある村落にはグスクは無く、グスクのあるところには御嶽がない。
    (グスクと御嶽は信仰的に同質で、ひとつの集落にひとつの聖域というのが一般的)
  • グスクには葬所が見られる。
    (仲松氏は、御嶽の本質は葬所だと考えていた。過去記事
    「御嶽の起源は葬所?自然崇拝?参照)


<グスクが城ではない根拠>

  • グスクは部落ごとにあり、城にしては数が多すぎる。
  • グスクには水がなく、城に適さない。
  • ほとんど岩石で構成されていて兵士が立てこもれるとは考えられないグスクが多い。
  • グスクと村落とをつなぐ道が通行困難で、グスクは、むしろ外部と隔絶しようとした施設としか思われない。
  • 首里城や今帰仁グスクなど明らかに城と分かるものもあるが、首里城内に首里杜グスクという拝所があることから、グスクという聖域を囲って城に発展した結果、城もグスクと呼ぶようになったと考えられる。


この仲松氏の指摘を皮切りに、グスクの本質を巡る大論争が展開されることになります。


(つづく)


参考文献
仲松弥秀「『グシク』考」『沖縄文化』第5号 沖縄文化協会 1961年



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| グスクとは? ―グスク論争のあらまし | 2010.07.14 Wednesday 02:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
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