琉球の城(グスク)にはなぜ聖域が存在するのか?本土出身の神主が聖域に君臨した琉球支配者の思想に迫る。
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| - | 2012.10.28 Sunday | - | - |
エージナ島・・・「グスク」じゃないんだけどな〜
ほとんど更新もしない当ブログ、当然ながらアクセス数もそう多くはないのですが、何かしらの検索で閲覧してくださる方もいらっしゃいます。
中でも多い検索キーワードは、「グスク」や「安須森御嶽」、「沖縄考古学会」などですが、負けず劣らず多いものに「エージナ島 グスク」があります。



【エージナ島の遠景(南東から撮影)】

糸満市名城の海にひっそりと佇むあの小さな島がこれほど検索されるのは、近年、『海東諸国紀』や『琉球国図』に描かれている「阿義那(あぎな)之城」はエージナ島のことであるという指摘がなされたからでしょう。
この説に対し私は、当ブログの記事「エージナ島はグスクか?」で、「エージナ島=城」というには超えなければならないハードルがいくつかあることを、グスク論争のグスク聖域説などを例に指摘しました。

仮に、表面観察で島から土器等の遺物が採集されたり、城壁の可能性がある石積みが発見されたり、攻めにくそうなジグザグの登り道が見つかったとしても、それが城の痕跡であるとするのは単なる主観に過ぎません。

採集される遺物は祭祀に使われたものであるかも知れないし、神社や寺のような場でも石積みはありますし、山道を上りやすくするためにジグザグにするのは極めて当たり前の行為であり、表面観察で得られる情報は、単独でも総合でも「エージナ島=城」とする根拠にはまるでならないのです。



まあ、これらのことは上述した過去記事ですでに述べたことなので、ここで繰り返す必要はないのですが、今回はひとつの危惧があって再び書き込むことにしました。
その危惧とは、「エージナ島=グスク」という見解についてです。


エージナ島が城であるとは断言できないまでも、その可能性は十分にあることは過去記事でも述べましたが、それは「エージナ島=城」であって、「エージナ島=グスク」では決してありません

その根拠は、まず、波上宮が別名「ハナグスク」と呼ばれているように「グスク=城」でないことがひとつ、
そして、次が重要なのですが、エージナ島が「グスク」と呼ばれていた形跡が見当たらないからです。

エージナ島に当たるとされる「阿義那(あぎな)之城」、これは、『海東諸国紀』・『琉球国図』において、阿義那之「グスク」ではなく、明らかに阿義那之「城(しろ)」と書かれています。
対して、中城グスクや伊計グスクなどは、「中具足城」や「池具足城」と記述されています。
つまり、2地図の中で、「具足(グスク)」と「城(しろ)」は使い分けられているのです。
これは、2地図の描かれた時代に、エージナ島が(仮に「エージナ島=阿義那之城」とした場合)「グスク」と呼ばれていなかったことを意味します

これは非常に重要なことで、今でこそ皆「城=グスク」と意識していますが、それがいつの時代のことからなのか、はっきりしないのです。

明らかな城を「グスク」と呼んでいない史料は他にも存在します。
琉球最古の歌謡集として有名な『おもろさうし』。
「ぐすく」という語はその中に多く見られるにも関わらず、今帰仁グスクや勝連グスク、浦添グスクなど、比較的大型のグスクは単に「今帰仁」・「勝連」・「浦添」とだけ謡われ、「ぐすく」と呼ばれることがありません。
これも、古琉球において、単純に「城=グスク」ではなかった可能性を示唆しています。


仮にエージナ島が城であることが判明し、「阿義那之城」そのものであったとしても、それはあくまで「城」であり、「グスク」ではありません。

なんの根拠もなくエージナ島を「グスク」と呼ぶことは、先学のグスク研究に対する認識不足です。
これから先、エージナ島を調査する研究者は、例えカギ括弧付きであるにしろ、エージナ島を「グスク」と呼ばないことを願って止みません。
| グスク見聞録 | 2012.06.06 Wednesday 23:28 | comments(11) | trackbacks(0) |
知念グスクの「古グスク」と「新グスク」

前回の記事「御嶽信仰は自然崇拝 ―知念森―」でお話ししたように、南城市知念にある知念グスクは、「古グスク(コーグスク)」・「新グスク(ミーグスク)」と呼ばれる2つ郭から成っています。
「古」・「新」の名が表わすように、2つの郭の成立には時代差があると言われていますが、そのひとつの証拠としてよく取り上げられるのが城壁石積みの技術差です。


まず、新グスクの石積みですが、下写真のように、石灰岩を多角形に加工し亀の甲羅のように積み上げていく「相方積み」(亀甲乱れ積み)という技法で積まれています。


s-P1930025.jpg
 【知念グスク 新グスクの石積み】


一方、古グスクの城壁は、石灰岩を加工することなく噛み合わせていく「野面積み」という積み方で築かれています。


s-P1790628.jpg
【古グスクの城壁(外面)】


s-P1830093.jpg
【古グスクの城壁(内面)】


相方積みと野面積みを比較すると、野面積みの技術の方が古くから存在し、
相方積みは技術的に進化した比較的新しい積み方であると考古学の中では説明されています。
つまり、知念グスクに伝承される古グスク(野面積み)と新グスク(相方積み)は、石積み技術の面からも説明がつくと考えられているのです。


ただし、このような説明に疑問がない訳ではありません。

野面積みが古くに成立した技術であったとしても、それが相方積み成立より後の時代にみられなくなった訳ではありません。
玉城グスク一の郭の城壁の内面は野面積みですが、四角く加工された切石が野面の中に混ざっていたりします。(混ざっているのは「布積み」用の切石)



【玉城グスク一の郭城壁内面】


つまり、玉城グスクの野面積みは、石を加工する技術が成立して以降に積まれた(積み直された)可能性が高いのです。(過去記事「グスクの石積み調査」参照。)
とすれば、知念グスクの城壁も、野面、相方という技術の違いだけで郭の新旧を論じる訳にはいきません

実際、知念グスクの古グスク城壁(野面)と新グスク城壁(相方)の接合点をよくみてみると、野面積みが相方積みの上に乗っているのがわかります。
少なくともこの部分だけは、野面の方が新しいことは間違いありません。


s-P1790607.jpg
【相方積み(新技術)の上に乗る野面積み(旧技術)】


結局のところ、地中に埋まっている石積みの根石などならともかく、
表面に見える石積みはいつの時代に積まれた、あるいは積み直されたものか分からないので、
グスクの新旧を見極める資料としては極めて扱いづらいということなのです。


しかしながら、石積みから古グスクと新グスクの新旧関係が明らかにできないからといって、新グスクが古グスクより先に築かれたとも考えにくいと個人的には思っています。
グスクは、丘陵頂部の聖地とセットであるのが一般的であり(過去記事「グスク聖域の証明」シリーズ参照)、知念グスクの頂部聖地も古グスク側にあるからです(過去記事「御嶽信仰は自然崇拝 ―知念森―」参照)。

新グスクが古グスクより先に築かれたはずはない、しかし、同時であった可能性は残ります。
どちらにしろ、この問題の解決は今後の調査を待つしかないでしょう。



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| グスク見聞録 | 2011.04.14 Thursday 21:49 | comments(2) | trackbacks(0) |
男子禁制ではなかった沖縄の聖地

聖地には女性しか入ることができない”というのは沖縄の一般通念です。
王国時代から、御嶽やグスクなどの聖地には女性しか入れないというのが専らでした。
(御嶽とグスクは、ほぼ同質の聖地と考えられています。)

夫婦喧嘩がエスカレートしたとき、妻は、男の入ることができない御嶽に逃げ込んだという話しも聞きます。
祭祀に際してどうしても男が聖地に入らなければならないときは女装していたとか。



【名護市 屋我グスク 結界される聖域】


聖地の男子禁制は、沖縄に支配者階級が出現する以前から変わらず続いていると漠然と考えられています。
しかし、実際には、沖縄各地で男の支配者が聖地に君臨する時代があります
グスク時代(12世紀〜16世紀)がそうです。
(過去記事「聖域に君臨するグスク支配者」シリーズ参照)


グスク時代の支配者たちが、神格を得て聖域たるグスクに君臨したことは間違いありません。
一方で、聖地が男子禁制の場として現代に伝わっているのも事実です。

では、沖縄の聖地は、一体いつから男子禁制になったのでしょうか?


その答えを直接探ることができる史料は残念ながら存在しませんが、少なくとも、第二尚氏三代、尚真王以降のことであることは間違いありません。

尚真は琉球で初めて中央集権体制を確立した王として有名ですが、彼の施策のひとつに、各地の按司(支配者)を首里に集め住まわせたことがあります。

グスクは元来聖域で、そこに支配者が君臨していたことは過去記事でお話しました。(過去記事「聖域に君臨するグスク支配者」シリーズ参照)
つまり、尚真が支配者たちを首里に集めるまで彼らは地方の聖地に君臨していたということであり、聖地の男子禁制は、尚真の中央集権体制確立より後のことであるのは確実でしょう。
(私は、男子禁制はまさに尚真王のときに制度化されたものと想像していますが。)


尚真王が支配者たちを首里に集め、ほぼ全ての聖地(グスク)から男が出ていったと考えられます。
しかし、中央集権体制確立以後も聖域に立ち入ることを許された者がただ一人存在します。

それは、国王です。

『おもろさうし』巻10の520番オモロには、国王が首里城最高の聖域「京の内」に詣でることが謡われています。
地方の支配者が聖地(グスク)から出された後も、国王だけは聖域(京の内)に出入りしていたのです。


これらの状況を総合して考えると、沖縄の聖地はずっと変わらず男子禁制だったのではなく、
各地の支配者が神格化して聖地に君臨し、覇を争い、最後に勝ち残った第二尚氏だけがそのまま聖地(首里城)に君臨し続けたと言えるのではないでしょうか。


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| グスク見聞録 | 2010.12.24 Friday 13:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
エージナ島はグスクか?
 先日、上里隆史さんの著作『ぞくぞく!目からウロコの琉球・沖縄史』を拝読しました。
その中で、私がもっとも興味をそそられたのは、「スクープ!謎の『グスク』を大発見」と題された一節でした。

なんと、『海東諸国紀』や『琉球国図』に描かれている「阿義那(あぎな)之城」が「ついに判明」したというのです。

上里さんが目を着けた「阿義那之城」は、糸満市の名城ビーチの対岸にある小島で、現在「エージナ島」と呼ばれるところでした。



【エージナ島の遠景(南東から撮影)】


「阿義那之城」=「エージナ島」という結論が導き出されたのは、主に以下の2点が根拠になっているようです。

ゞ畧い慮澱録泙鮓ると、エージナ島は「あいけな島」と呼ばれており、「あいけな」と「阿義那(あぎな)」の音が非常に似ている。島の位置も矛盾しない。
⊆尊櫃縫─璽献陛腓鯑Ш困靴討澆襪函◆『グスク』的性格の遺跡」であったことが判明した。



,虜拠は非常に興味深く、私も実際に古地図を見てみると、“「阿義那之城」、もうエージナで決まりじゃん?”といった気になりました。

しかし、「阿義那之城」=「エージナ島」と断言するには越えなければならないハードルがいくつかあります。

まず、ひとつの懸念として、エージナが「あいけな」と呼ばれている古地図は近世のものであり、古琉球に描かれた『海東諸国紀』・『琉球国図』とは同時代の史料ではないことがあります。
つまり、近世に「あいけな」と呼ばれていた島が、古琉球に遡っても同じ(似た)名で呼ばれていたことを実証することができないのです。
「阿義那之城」=「エージナ島」とするには、別の情報からクロスチェックする必要があるでしょう。

もちろん、上里さんもそんなことはご承知で、実際に現地を踏査されて△虜拠を導き出されました。
エージナは現在「グスク」とは呼ばれていませんが、その他のグスクと非常に似通った遺跡(「グスク」的性格の遺跡)であることを発見されたのです。


ところで、エージナ島が「グスク」的とは言っても、それは聖域的グスクであってはなりません。
「エージナ島」=「城塞的グスク」でないと、「阿義那之城」=「エージナ島」の証明にはならないでしょう。
なぜなら、『海東諸国紀』・『琉球国図』のなかで「グスク」は「具足」と書かれていることから、「城」の字は、「グスク」ではなく「しろ」の意で使用されている可能性が高いからです。
つまり、「阿義那之城」は、「あぎなの“ぐすく”」ではなく、「あぎなの“しろ”」の意なのです。

上里さんのエージナ島の踏査も、やはり、聖域的要素ではなく、城的要素を抽出することを強く意識してなされたようです。

では、どのような情報がそろえばエージナ島が城塞的であると言えるでしょうか。

上里さんは、エージナ島が「防御性を持つ集落遺跡であることは確実に言える」根拠として、主に以下の2点を指摘されています。

(1)防御性を持つ石積みが存在する。
(2)島にはかなり広い平場があり、入口付近にグスク土器片が発見されたことからも、人が住んでいたことは明らか。


実は、私も、エージナ島に興味を持って踏査してみました。
一見、小さな島なんですが、上ってみると中にはかなり広い平場と古そうな遺構(石積み)があり、直感的に“これはただの島ではない!”と思わされました。

しかし、私の出した結論は、上里さんとはまったく逆で、
エージナ島を城(防御性集落)とする根拠は何もみつけられなかったです。

これは、私の踏査が上里さんより情報を得られなかったということではなく、得た情報の評価がまったく違うということです。(上里さんの本に載せられなかった情報が他にあるなら話は別ですが・・・)


上里さんの挙げた2つの情報が「グスク」=「城」の根拠にはならないというのは、グスク論争のかなり初期の段階で指摘されていることです。

まず、(1)の「“防御性を持つ”石積み」ですが、石積みが防御性を持っていたかどうかは、基本的に表面観察で分かることではありません
「グスク」=聖域説を唱えた仲松弥秀氏は、石積みがあるのが城の証明になるならば、たとえば波之上宮(別名「ハナグスク」)が将来遺跡として発掘されたとき、神社の石積みは城壁とみなされるのかと疑問を呈しています。

また、(2)「土器片から人の居住は明らか」という話ですが、これも、遺物が出てもそれは祭祀に使われたものである可能性があり、生活遺物とは限らないことが仲松氏に指摘されています。
実際、島そのものが御神体とみなされる玄界灘の孤島「沖ノ島」は、無人島でありながら多量の器が発見されています。
上里さんが、どのような状況でどの程度の量のグスク土器片を発見されたのかは分かりませんが、恐らく、生活遺物であることが証明できるようなものではないでしょう。

エージナ島が城塞的機能を持っていたかどうかは、しっかり発掘調査をしないとはっきりしてこないのだと思います。


まとめると、結局、今のところ、「阿義那之城」=「エージナ島」とする根拠は、『海東諸国紀』・『琉球国図』と近世の地図に見られる島の名称と位置の近似性のみということになります。
(これが同時代史料ではないという問題を抱えていることは前述通りです。)

現時点で、「謎のグスクが判明した」というレベルにはまったくありませんが、エージナ島がただならぬ島ではないという点では私も共感します。
もしかすると、これから先の調査で「阿義那之城」=「エージナ島」が実証される日もくるかも知れません。
その日まで、私たちには、思い込みを捨て、史料やあらゆる情報を客観的かつ批判的に分析していく態度が必要とされるでしょう。

いずれにしろ、エージナ島に脚光を当てた上里さんの仕事は非常に価値あるものと思います。


【参考文献】
上里隆史『ぞくぞく!目からウロコの琉球・沖縄史』ボーダーインク 2010年
仲松彌秀「『グシク』考」『沖縄文化』第5号 沖縄文化協会 1961年



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| グスク見聞録 | 2010.11.02 Tuesday 12:08 | comments(30) | trackbacks(0) |
グスクの石積み調査

グスクの石積みには、大きく分けて、割りとった石をほとんど加工しないで積み上げた野面積み、石を四角にカットしてレンガのように積んでいく布積み、石を多角形に切って亀の甲羅ように積んでいく相方積みの3種類があります。


昨年度、首里以前の王城だったとされる浦添グスクの発掘にて、内面(うちづら)と外面(そとづら)で異なる積み方になっている城壁が確認されました。

外面は、

s-IMG_0308.jpg
【浦添市 浦添グスク外郭城壁の外面】

このように四角い切石を使った布積みなのですが、
内面はというと、

s-内面3.jpg
【浦添市 浦添グスク外郭城壁の内面】

ほとんど加工がなされていない野面に近い雑石積みだったのです。

ひとつの城壁で、内側と外側の積み方がなんでこんなに違うの?


・・・よくわかりません。

よくわかりませんが、考古学者の知り合いに尋ねたところ、内と外の石積みが異なる城壁を持つグスクは「けっこうある」とのこと。

そんじゃあそのグスクを見てみようじゃない(`3´)

ということで、昨日、南部のグスクの城壁をみて歩きました。
私もグスクはそれなりに見て回ったつもりですが、いつもイベ石や自然地形にばかり注意を払っていたもので、城壁の記憶がほとんどないんですよね(--;)
今回はとても良い勉強になりました。


さて、南部を巡ると、確かに、2グスクはありました。
内と外の積み方が違う城壁が。

ひとつは玉城グスク。

外は


【南城市 玉城グスク一の郭城壁の外面】

布積みなのに対し、内は


【南城市 玉城グスク一の郭城壁の内面1】

野面積みでした。
なるほど。浦添グスクと似ている・・・気がする。

しかし、城壁内側の野面には


【南城市 玉城グスク一の郭城壁の内面2】

このように切石が間にはまっているところもあり、崩れた城壁が積みなおされていることがわかります。
どこまでがオリジナルなのか、よくわかんないですね。


もうひとつのグスクは、糸数グスクなんですが・・・
糸数はもう、なにがなんだかよくわかんないです(--;

外面が


【南城市 糸数グスク城壁外面】

これで、内面が


【南城市 糸数グスク城壁内面】

これです。
確かに・・・内と外で様子は違うんですが・・・

外面は、下は大きな切石で、上にいくに連れ小さくなって、最終的には野面積みになってしまう。
内面は、下の方だけ大きな切石で、ほとんどが野面積み。

ぱっと見、相当適当な修復をしたんじゃないかとさえ思ってしまいますが、糸数はかなり城壁の残りが良かったグスクで、城壁上部の様子もわかっているので、でたらめな修復をしている訳ではないんですよね。

崩れた城壁を積み直した結果こうなったのか?
それとも、築城時に石材が足りなかったという伝承があるそうなので、はじめからこのような姿で築かれたのか?

ともかくよくわからない謎のグスクです。


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| グスク見聞録 | 2010.09.04 Saturday 12:47 | comments(2) | trackbacks(0) |
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