琉球の城(グスク)にはなぜ聖域が存在するのか?本土出身の神主が聖域に君臨した琉球支配者の思想に迫る。
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| - | 2012.10.28 Sunday | - | - |
聖域に君臨するグスク支配者 その8 ―神格化した支配者たち―

「聖域に君臨するグスク支配者」シリーズでは、ここまで、

聖域(グスク)を城塞化した支配者がいたこと
聖域(グスク)の中で、神(イベ石)と同レベル(頂部)に並列する位置に君臨した支配者がいたこと
北山・中山・南山などの「王」クラスだけではなく、中城・勝連・大城グスクなどの地方支配者クラスまでも、神と並列して君臨していたこと

以上3点を指摘してきました。
(グスクが城塞化される以前から聖域であったことは、「グスク聖域の証明」シリーズ参照。)


「聖域に君臨するグスク支配者 その1」「その2」でお話したように、聖域は、俗人が安易に踏み込める場ではありません。
では、グスク(聖域)に入り込み、神(イベ石)の隣に自らの建物を築いてしまったグスクの支配者とは、いったいどのような信仰的地位にいる人物だったのでしょうか?


s-P1820187.jpg
【大城グスク(南城市大里)の頂部のイベ石】


s-P1820225.jpg
【頂部イベ石に隣接する場に建物の礎石が残っている】


グスク時代における支配者の信仰的地位を探るための史料として、恐らく唯一挙げられるのは『おもろさうし』(以下、『おもろ』と略記)です。

『おもろ』では、首里の国王や地方の支配者が「てだ」と呼ばれることがあります。
「てだ」はもともと「太陽」のことで、支配者が「てだ」と呼ばれるのは、彼らが太陽神の力・聖性を得て神格化されたからだと考えられています。

一国の最高権力者が神と化すのは、日本なら天皇、中国なら皇帝が神格化されているように、世界的にそれほど珍しいことではありませんが、『おもろ』の最大の特徴は、地方レベルの支配者までもが神格化されていることです。
しかも、首里の国王と地方支配者の格に大きな差がなく、双方とも「てだ」と呼ばれているのです。

(私はこれを“琉球版モンスターエンジン現象”と呼んでいる・・・「私は、テダだ」、「お前もか」)


神と支配者が並列する城塞的グスクが沖縄の各地にみられる状況と、複数の支配者が「てだ」と謡われている『おもろ』の内容とは、非常にマッチしています。

このことを踏まえると、支配者が、神に並列して自らの建物を築くという大それたことができたのは、支配者が太陽神と同格の神威を獲得するという信仰的論理が成立していたからだと考えられます。
グスク支配者は、思想的に神格化されることで聖域(グスク)において神に並び立つことが可能になり、また、並び立つことで、自らの聖性を誇示し、被支配者のより強い尊崇を一身に集めようとしたのではないでしょうか。


さて、8回にわたってお話した「聖域に君臨するグスク支配者」シリーズは以上で終わりですが、「グスク聖域の証明」「聖域に君臨するグスク支配者」の両シリーズは、来年1月21日(金)の沖縄考古学会の定例会で発表するよう声をかけていただきました。
私の研究は考古学ではない(かといって歴史学でも民俗学でもない。ほとんど素人の思いつきに近い ←お前はなぜ呼ばれた?!)ので、考古学会の壇上に立つに相応しいとはどうしても思えないのですが、(←当たり前じゃ!)せっかく頂いた機会ですので、喜んでお引き受けしました。(←おい!こら!)
興味のある方はどうぞ(冷やかしに)いらしてください。
場所は(たぶん)沖縄県埋蔵文化財センターです。


(完)


【参考文献】
武部拓磨「続・城塞的グスクにおける聖域の考察」浦添市教育委員会文化部文化課(編)『よのつぢ 浦添市文化部紀要』第6号 浦添市教育委員会文化部 2010年


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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.11.15 Monday 12:01 | comments(2) | trackbacks(0) |
聖域に君臨するグスク支配者 その7 ―神と並び立つ支配者たち―

前回の記事「聖域に君臨するグスク支配者 その6」で、城塞化が聖域内に施されたことが明らかなグスクが存在することをお話しました。

これは、俗人は聖域にむやみに立ち入ることができないという信仰的常識(「聖域に君臨するグスク支配者 その1」「その2」参照)から考えて、とんでもない行為であると言えます。
聖地は男子禁制というのが一般通念である沖縄においては、なおさらでしょう。


しかし、事はただ“支配者が聖域内に城を築いた”という問題に留まりません。

なんと、聖域に入り込んだ上に、ご神体であるイベ石のすぐ側に自らの権威を誇示するような建物を築いてしまった者までいるのです。


たとえば、前回も紹介した中城グスク。



【中城グスク一の郭平面図(中城村教育委員会の報告書に掲載されている図を一部抜粋の上加筆)】


上の図でも分かるように、中城グスクの「正殿」と言われる大型建物が、信仰の中心であるはずの中森ノ御イベと同レベル(頂部)近接して建てられています。

これを神社で例えるなら、境内の中どころか、ご神体の安置されているご本殿のすぐ隣に自分の家を建ててしまうようなものです。
中城グスクの支配者がいかに聖域の奥深くに君臨していたかがわかります。


実は、この“「イベ石=神」「権威的建物(正殿)=支配者」同レベル(頂部)近接する構造”は、中城グスクの他にも多くの大規模グスクで確認できます。

今帰仁グスク、勝連グスク、浦添グスク、島添大里グスク、大城グスク(南城市大里)、などなど。
(※首里城は別格の聖域構造になっています。)



【島添大里グスク鳥瞰図(大里村役場社会教育課「島添大里グスクミニガイド」の図を一部抜粋の上加筆) ウティンチヂと呼ばれる頂部聖域と正殿が同レベルで近接している。】



【勝連グスク一の郭(頂部)の拝所 発掘調査で同じ郭内に建物があったことがわかっている。】


ところで、興味深いのは、神の隣に君臨した支配者は、北山・中山・南山などの一国の王だけではなく、中城グスクや大城グスクなどの地方支配者も含まれていることです。

つまり、グスク時代の琉球では、いたるところで神に並び立つ支配者が乱立していたのです。


さて、しかし、頂部の「イベ石=神」と同レベルに君臨するからには、グスク支配者たちにはそれ相応の信仰的地位が必要であったはずです。

次回、神に並び立ったグスク時代の支配者たちの信仰的地位とはいかなるものだったのか、『おもろさうし』を参考に考えてみたいと思います。


(つづく)


【参考文献】
・大里村役場社会教育課「島添大里グスクミニガイド」
・武部拓磨「続・城塞的グスクにおける聖域の考察」浦添市教育委員会文化部文化課(編)『よのつぢ 浦添市文化部紀要』第6号 浦添市教育委員会文化部 2010年
・中城村教育委員会『中城城跡―北の郭西側城壁及びウフガー周辺の整備に伴う発掘調査報告―』2002年

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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.10.19 Tuesday 17:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖域に君臨するグスク支配者 その6 ―ほんと、君臨しちゃってます。―

グスク支配者たちは、聖域の中に城を築いたのか?
それとも、聖域の中は侵さず、城内に取り込んでしまっただけなのか?



前回の記事「聖域に君臨するグスク支配者 その5」では、まちがいなく聖域の中に平場が造成されているグスクが複数存在することをお話しました。

しかし、平場が造成されたからといって、それが城塞化のためだったのか、拝所施設整備のためだったのかは容易に判断できません。
聖域内に造成された平場はどのように機能していたのか、どうやって考察すれば良いでしょうか。


ひとつの方法として、“発掘”が考えられます。
出土した遺構・遺物などから、平場が俗的な営みに使用されたのか、聖的な場として機能していたのかを調べるのです。

しかし、これは口で言うほど簡単なことではありません。
グスク論争の中でも議論があったのですが、発掘で出土した遺物が生活遺物(俗的)なのか祭祀遺物(聖的)なのか、どうやって見分けるのかという問題があるのです。(「グスク論争 その2」参照)


聖域内に造成されたことがまちがいない平場のすべてについて、その機能を明らかにする方法を私は持っていませんが、平場造成の目的が城塞化にあった可能性が高いグスクをいくつか抽出することは可能です。
その内のひとつ、中城グスクを紹介します。



中城グスクは、頂部の岩がイベ石として平場に取り込まれた典型的な分類.哀好であり(過去記事「聖域に君臨するグスク支配者 その5」参照)、聖域内に平場が造成されていることは確実です。

中城グスクの中でイベ石となっている丘陵頂部の岩は「中森ノ御イベ」、それを同一平面に取り込んでいる平場は一の郭です。


s-P1810908.jpg
【中城グスク一の郭 中森ノ御イベ(手前の岩)が平場の中に取り込まれている】


問題は、一の郭が造成されたのは城塞化のためだったのか拝所整備のためだったのかですが、それを探るために、一の郭に見られる構造物に注目します。



【一の郭平面図 中城村教育委員会の報告書に掲載されている図を一部抜粋の上加筆しています。】


上の図のように、中城グスク一の郭には大型建物の基壇があり、正殿跡と考えられています。
この建物は、いったい何のために建てられているのでしょうか?

これが中森ノ御イベを拝むために建てられたのではないことは一目瞭然です。
イベ石の場所が建物の中心線からずれているためです。
建物の正面で手を合わせても、イベ石の方に向かないということです。


そして、もうひとつ注目したいのは、一の郭全体の中で、イベ石と建物がどこに位置しているかです。

これも上図をみるとすぐにわかりますが、元来の聖域の主役であるはずの中森ノ御イベは一の郭の片隅に位置し、一の郭の中心部には、大型建物が我が物顔で建ち誇っています
つまり、一の郭は、イベ石への信仰を充実させるためではなく、大型建物を築くために造成されたと考えることができるでしょう。


 一の郭は大型建物を建てるために造成された。
大型建物は、イベ石を拝む施設ではない。



以上の二点から、一の郭は、拝所整備のためではなく、城塞化のために、聖域内へ造成された平場であるということができるのではないでしょうか。


さて、ここまで数回にわたって長々とお話してきましたが、結論です。

城塞的グスクは、聖域内は侵さず、その周りを城壁で囲って築かれたと考えられてきましたが、そうではありません。
中城グスクなどの構造をみる限り、城塞的グスクは、聖域の中に入り込んで築かれているのです。


この事実は、沖縄の信仰観に大きな見直しを迫ります。
聖地は女性しか入ってはいけない男子禁制の場であるというのは沖縄の一般通念ですが、これまで見てきたように、少なくともグスク時代(12〜15世紀)には、男がガンガン聖域に入り込み城塞化を果たしているのです。

次回は、沖縄の一般通念から外れるグスクの支配者像について考えてみたいと思います。


(つづく)


【参考文献】
・武部拓磨「続・城塞的グスクにおける聖域の考察」浦添市教育委員会文化部文化課(編)『よのつぢ 浦添市文化部紀要』第6号 浦添市教育委員会文化部 2010年
・中城村教育委員会『中城城跡―北の郭西側城壁及びウフガー周辺の整備に伴う発掘調査報告―』2002年

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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.10.08 Friday 12:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖域に君臨するグスク支配者 その5 ―聖域内への築城を証明するグスク分類―
グスク支配者たちは、聖域の中に城を築いたのか?
それとも、聖域の中は侵さず、城内に取り込んでしまっただけなのか?



これを証明するために、その構造からグスクを二種に分類しますが、その前に、自然丘陵に城塞的グスクが築かれるまでの過程を確認したいと思います。

まず、下のような自然丘陵があったとします。

s-グスク自然地形イメージ図1.jpg



城塞化に伴う諸施設を造るには、凸凹の丘陵に平場を造成しなければなりません。
平場は、出っ張った岩を削ったり落ち込んだ部分を埋めたりして造成されます。


s-グスク自然地形イメージ図5.jpg


こうして造成された平場に、削られもせず埋められもせず、意図的に残された岩が存在します。
こうした岩が、イベ石として現在も崇拝の対象となっているのです。



s-グスク自然地形イメージ図6.jpg



また、イベ石の多くは、グスクの土台となっている自然丘陵の頂部に位置しています。
イベ石はなくとも、丘陵の頂部が聖域となっているグスクがほとんどです。
こうした事実から、グスクには、城塞化以前から、丘陵頂部を信仰の中心とした聖域があったと考えられます。

以上のことは、過去記事「グスク聖域の証明」シリーズで詳しく説明していますので、ご参照ください。



さて、過去記事「聖域に君臨するグスク支配者 その4」でも言いましたが、グスク聖域が城塞化以前から存在したとしても、城が築かれたのが聖域の中だったのか外だったのかを考えるには、当時の聖域の範囲をはっきりさせなければなりません

しかし、私が証明できたのは、グスク聖域は丘陵の頂部を核としていたということのみで、その範囲が頂部の一部に留まるものなのか、麓まで広がるものなのかはよくわかりません。(感覚的には麓まで広がっていたという気もしますが・・・)


では、城塞化されたのが聖域の中だったのか外だったのかを知ることは不可能かと言えば、そうでもありません。
グスクの構造を2つに分類することで、少なくとも一部のグスクに関しては、聖域の中に城が築かれたことが証明できます。



では、その分類とは何か?
私は、グスクの構造を以下の基準に従って分類しました。

…塞瑤離ぅ拈个鯤疹譴涼罎房茲蟾んでいるグスク

頂部のイベ石を平場の中に取り込んでいないグスク



これらを図示すると、以下のようになります。


s-グスク自然地形イメージ図6.jpg

…塞瑤離ぅ拈个鯤疹譴涼罎房茲蟾んでいるグスク



s-グスク自然地形イメージ図7.jpg

頂部のイベ石を平場の中に取り込んでいないグスク



この分類で何がわかるのか?

少なくとも、次のことが言えます。


,吠類されるグスクは、間違いなく聖域の中に平場が造成されています。


なぜこのようなことが言えるのか?
過去記事「聖域に君臨するグスク支配者 その4」で確認しましたが、聖域は聖なるエリアのことであり、崇拝対象であるイベ石だけで聖“域”は成立しません。
イベ石の他に、それを拝む場所や、そのほか諸々の諸施設を含めた一帯が「聖域」となるのです。

とすると、分類,離哀好も、頂部のイベ石だけで聖域を成していたわけでは当然ありません。
元来の聖域は、平場の地中にまで広がっていたはずです。


つまり、頂部のイベ石を取り込んだ分類.哀好の平場は、元来の聖域の中を造成しない限り、理論上、成立し得ないのです。


,吠類されるグスクには、次のものがあります。
安谷屋グスク(北中城村)、伊祖グスク(浦添市)、島尻大里グスク(糸満市)、玉城グスク(南城市)、勝連グスク(うるま市)、米須グスク(糸満市)、中城グスク(中城村)、今帰仁グスク(今帰仁村)、根謝銘グスク(大宜味村)、屋良グスク(嘉手納町)などです。



【嘉手納町 屋良グスク 頂部のイベ石1】



【嘉手納町 屋良グスク 頂部のイベ石2】


ちなみに、分類▲哀好に関しては、聖域の中に築かれたかどうかは分かりません。
頂部を中心とする聖域が、図の点線楕円の範囲に収まっている可能性があるからです。
ただし、聖域は麓にまで広がっていたことも考えられるので、分類▲哀好に言えることは、聖域に築城は成されなかったということではなく、聖域の内が城塞化されたかは「よくわからない」ということだけです。



以上の分類で聖域の中に平場が造成されたグスクをいくつか抽出しましたが、実は、これだけでは、まだ聖域内に城塞化がなされたとは断定できません
平場造成の目的が、イベ石への信仰を充実させるための拝所施設整備にあった可能性もあるからです。

というわけで、次回のテーマは、聖域内に造成された平場が城塞化を目的としていたことの証明です。
ご期待ください。


(つづく)


【参考文献】
武部拓磨「続・城塞的グスクにおける聖域の考察」浦添市教育委員会文化部文化課(編)『よのつぢ 浦添市文化部紀要』第6号 浦添市教育委員会文化部 2010年


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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.09.29 Wednesday 11:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖域に君臨するグスク支配者 その4 ―元来のグスク聖域の範囲―

グスク支配者たちは、聖域の中に城を築いたのか?
それとも、聖域の中は侵さず、城内に取り込んでしまっただけなのか?




これを確かめるためには、
城遺構のみられる場が、築城以前に聖域だったかどうか
を調べなければなりません。

しかし、それは非常に難しいことです。
聖域の範囲は目に見えない上に、時代と共に移り変わっていくからです。

本土の神社などでも、境内を聖域とした場合、その範囲は土地の寄進などで広くなったり開発や崩落などで狭くなったりします。
こういったことは、当然、グスク聖域においても起こり得る訳で、
現在グスクに見られる聖域の範囲が昔からまったく変わっていないとは言い切れないのです。


では、城が築かれた場が元来聖域であったかどうかを調べることはまったく不可能かというと、そうでもありません。
グスクの構造を2種に分類することで、一部のグスクに関しては、
聖域内に城塞化がなされたことを論証できるのです。


その分類方法は次回に送るとして(じらすようですみません^^;)、
今回は、分類の前提として、以下の2つのこと確認しておきたいと思います。


まず1つ目は、グスク聖域は、丘陵頂部を信仰の中心としていたことです。
グスクにみられるイベ石(霊石)の多くが丘陵頂部に位置する岩であること、イベ石はなくとも、丘陵頂部を聖域としているグスクがほとんどであることなどが根拠となります。
(過去記事「グスク聖域の証明」シリーズをご参照ください。)


2つ目は、聖域は一定の範囲を占めることです。
「聖域」は、読んで字の如く聖なる域(エリア)のことであり、
崇拝対称であるイベ石だけでは聖“域”とはなり得ません

ひとつ例を挙げると、沖縄でもっとも神聖な聖域として知られる世界遺産の斎場御嶽には6柱のイベが祀られていますが、それぞれが単独で「聖域」を形成している訳ではありません。
イベと、それを拝む礼拝場などの諸施設を含めた丘陵一帯が「聖域」なのであって、「御門口(ウジョーグチ)」と呼ばれる入口が俗域との境界となっています。


s-P1790403.jpg
【斎場御嶽のイベのひとつ 大庫裏(ウフグーイ) 現在も篤く信仰されている】


s-P1790392.jpg
【斎場御嶽の入口「御門口」 昔はこれより奥に一般人が入ることは許されなかった】


以上を踏まえて、次回はいよいよ聖域内に城塞化がなされたグスクの証明です。


(つづく)


【参考文献】
武部拓磨「続・城塞的グスクにおける聖域の考察」浦添市教育委員会文化部文化課(編)『よのつぢ 浦添市文化部紀要』第6号 浦添市教育委員会文化部 2010年


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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.09.17 Friday 11:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖域に君臨するグスク支配者 その3 ―聖域城塞化の先行研究―

グスク支配者たちは、聖域の中に城を築いたのか?
それとも、聖域の中は侵さず、城内に取り込んでしまっただけなのか?



グスクが城塞化されるにしても、グスク聖域の内にされるのと外にされるのとではまったく意味合いが異なることは過去記事(「聖域に君臨するグスク支配者 その1」「その2」)でお話しました。
今回のテーマは、この問題が、グスク論争の中でどのように議論されてきたかです。


結論から言いますと、この問題、実はほとんど議論されていません
グスク論争は、もっぱら、グスクは城か、聖域か、集落かといった、かなり大枠の部分で議論がなされたので、城塞化が聖域の内か外かなんて話以前に、聖域説そのものが正しいかどうかが疑われたのです。

そのため、グスクの聖域がいったいどのような信仰に基づいていたのか、
誰が、何を、何のために、どのように祀ったのかなど、
具体的な聖域観はあまり論じられてこなかったようです。
(史料不足の問題もありますが)


しかし、聖域説を唱えた研究者の方に、そのビジョンがなかった訳では当然ありません。
たとえば、聖域説を初めて提示した仲松弥秀氏(過去記事「グスク論争 その1」参照)は、首里城と中城グスクを例にとり、
「神のおられるグスクを保護していた豪族が、それに隣接して居館を建て」たとしています。

つまり、グスク支配者は、聖域内は侵さず、その外(聖域の周囲)に城を築いたと考えているのです。

この仲松氏のグスク聖域観は、しっかりと議論されないまま現在に踏襲されているようです。


ちなみに、仲松氏が、「豪族」が保護していたと考えた聖域は、首里城の京の内と中城グスクの南の郭と思われます。
京の内と南の郭は郭内に拝所が密集している状況などがよく似ていて、何かしらの関連を指摘する研究者もいます。(私はあまり関連性を感じませんが・・・)


s-P1860169.jpg
【中城グスク 拝所が密集する南の郭に続く階段】


s-P1860177.jpg
【中城グスク南の郭の拝所1】


s-P1860176.jpg
【中城グスク南の郭の拝所2】


さて、支配者はグスク聖域を侵すことがなかったとする従来の見解に、これまであまり疑問が持たれてこなかった最大の要因は、
信仰に通じているからこそ囚われてしまう“俗人が聖域を侵すことはない”という常識(過去記事「聖域に君臨するグスク支配者 その1」「その2」参照)と、
沖縄の聖地は男子禁制”であったという思い込みにあるように思います。
(私も陥っていました^^;)


・・・ええ、はっきり言ってしまいましょう。

沖縄の聖地が古くから男子禁制であったというのは、根拠のない思い込みです


ここまではっきり言ってしまえばもうお分かりだと思いますが、私は、
グスク支配者は、聖域の中に城を築いてしまった
と考えています。
しかも、大和の城が神社を追い出したのとは対称に、聖域を城内に残す形で。
次回から、その根拠をお話していこうと思います。
乞うご期待。


(つづく)


【参考文献】
仲松弥秀『神と村』梟社 1990年


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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.09.12 Sunday 11:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖域に君臨するグスク支配者 その2 ―日本の城と聖域―

先日、沖縄のパワースポットを巡るテレビ番組が放送されていました。
はじめに紹介されたのが首里城の首里森御嶽。
神話の中でアマミキヨが創造したとされる、首里城でもっとも尊崇な御嶽です。

首里城には「京の内」という城内でもっとも神聖な聖域がありますが、なぜか首里森御嶽は京の内の中にはありません。
もっとも尊崇な御嶽と、もっとも神聖な聖域が別々の場所に存在するのです。



【首里森御嶽 背後の城壁の向こうが京の内】


これは、首里城の聖域構造の大きな謎のひとつで、いまだ解明されていません。
私自身はちょっとしたアイデアがあって、ちょうど論文を執筆中なんですが、誰かにケチョンケチョンに批判されて私が琉球史の世界から逃げ出していなければ、このブログでお話させていただく機会もあるでしょう。(笑)

・・・チャレンジ精神だけは認めて


ところで、話はそれましたが、パワースポットの番組では、首里森御嶽に関して少々気になる説明がなされていました。

首里森御嶽の植生に関してなんですが、石積み囲いの中の植物(ガジュマル・クロツグ)は自然に任せて生え放題に放っておかれたのではなく、神が降臨する植物として選ばれたのである、とのこと。
この話の根拠が何であるか分からないんでなんとも言い難いんですが、ちょっと違和感なんですよね。個人的に。

本土の神社では、神域の杜は「鎮守の杜」と言って、人の手がほとんど加わらないものです。
沖縄においても御嶽の杜は自然の姿で守られていると認識しているのですが、首里森御嶽はそうではなかったのでしょうか?

違和感を持つもうひとつの理由は、首里森御嶽は岩を崇める御嶽であったということです。
本土の神社でも御神木が枯れれば新たに植え直すということはありますが、岩が主体の神域に、わざわざガジュマルを枯れる度に植え直す信仰的理由がよくわからないんですよね。
神は岩に降りてくる訳ですし。
それとも、400年以上ものあいだ、ガジュマルは一度も枯れずに生き続けた?

また、ガジュマルが選ばれるというのもよくわからないです。
クロツグはともかく、ガジュマルって聖木のイメージがないんですよね。
確かに、発掘調査でガジュマルの根がみつかったとは聞いていますが、それだけではガジュマルが御嶽に相応しい木として「選ばれた」という根拠にはなりませんよね。
私としては、仮に御嶽にガジュマルが生えていたとして、それは人為的に植えられたのではなく、鎮守の杜として守られてきた神域にたまたま生えたのだと思えるんですが。
それとも、どこかに事例があるのかなぁ?


とにもかくにも、首里城の聖域は分かりそうでよく分からない、これが魅力ですね(笑)



さて、本題(「聖域に君臨するグスク支配者 その2」)に入ります。

「聖域に君臨するグスク支配者 その1」では、俗人が聖域を侵すことが、信仰心の薄れた現代においてでさえ、いかに問題になるかをお話しました。
信仰心がずっと篤かったであろうグスク時代(12〜15世紀)においては、なおさらだったことでしょう。
このような感覚を前提にしたとき、「聖域に城塞を築いた」という発言にも、自ずと緊張感を持たざるを得ません。
(城塞的グスクの聖域が城塞化以前から存在したことの証明は「グスク聖域の証明」を参照。)

グスク支配者たちは、聖域の中に城を築いたのか?
それとも、聖域の中は侵さず、城壁で囲ってしまっただけなのか?


その考察に入る前に、しつこいですが、もうひとつだけ確認しておきたいことがあります。
それは、日本本土において城が聖域に築かれた事例に関してです。

戦国時代の日本において、山の聖域に城が築かれることは普通にありました。
この場合の「聖域」とは神社や寺のことです。
俗人(武士)の入り込んだ聖域は、どのように変容したのでしょうか?


もっとも有名な例は世界遺産の姫路城でしょう。



【兵庫県 姫路城天守(遠景)】



【兵庫県 姫路城天守(近景)】


現在姫路城の天守が建っている山(姫山)には、もともと長壁(おさかべ)神社という由緒ある神社が鎮座していました。
ところが、豊臣秀吉の築城に際して、神社は姫山からよそに遷されてしまいます。
その後、姫路城に長壁神社の神の祟りの噂が流布したため、長壁神社は再び姫山で祀られることになりました。
つまり、俗人である武士が神を追い出してはみたものの、結局、畏れをなして再度神を迎えていれたのです。
聖域へ城を築いたことに対する武士の呵責が見て取れます。


次の例は岐阜県の岐阜城(稲葉山城)です。

当時、稲葉山の中腹には伊奈波(いなば)神社という、これまた由緒ある神社が鎮座していましたが、美濃のマムシこと斉藤道三が領主になったときに、神社より高い山上に俗人(武士)が居住することが問題となり、伊奈波神社は近くの山の麓に遷座してしまいます。

つまり、聖と俗が住み分けることで折り合いをつけたのです。



【岐阜県 岐阜城跡 中腹には伊奈波神社が鎮座していた】



姫路城や岐阜城の例をみると、日本においては、聖(神)と俗(武士)が混ざり合うことはありませんでした。(例外もありますが)

このような日本の状況を念頭に、
聖域に城塞的グスクが築かれた琉球の状況をみたとき、
琉球独自の歴史的展開が浮き彫りになるのです。


(つづく)


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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.09.07 Tuesday 12:00 | comments(2) | trackbacks(0) |
聖域に君臨するグスク支配者 その1 ―禁忌の聖域―

「グスク聖域の証明」シリーズでは、これまで実証的に示されてこなかった
“グスクの聖域は、グスク時代に遡って存在していたのか?”という問題を取り上げ、
グスクの丘陵頂部を中心とする聖域が、グスク時代には間違いなく、そして恐らくは、
それ以前に遡って存在していたと考えられることを私なりに証明しました。

今回はその続きで、テーマは、
地方の支配者たる按司(あじ)達が城塞化したのは、
グスク聖域の内側であったのか、外側であったのか
です。


・・・


でも、

この問題、

何が重要なのかピンとこない人も多いようです。


私は実家が神社で、自分自身も神主のため、
もしも聖域の中に人間の支配者が君臨するようなことがあれば、

「とんでもねえやっちゃ、罰当たるで!」

という感覚なんですが、宗教感覚の希薄な現代では、
それは一般的ではなくなってきているのかも知れません。


しかし、聖・俗のけじめをちゃんとつけるべきだという感覚は、
現代においても、何かしらの宗教に関わっている人たちにとっては当然のことでありまして。。。

たとえば、波上宮(←正式には「波上宮」。「波之上宮」ではない。)


【那覇市 波上宮と後ろの橋】

写真右の橋の手すりが一部朱色に塗られているのがお分かりいただけるでしょうか?
この部分は、波上宮の真後ろにあたります。

ちゃんと調べた訳ではないのですが、
波上宮にとって重要な軸線上にある部分をに染めてごまかしたのでしょう。

「ごまかした」というのは、
神主としては、
「神社の裏に俗人の道を通すとはなんちゅう無礼もんじゃ!」
って感じでして、
もう橋を造ること自体あり得ないことです。

波上宮の神職の方々も、架橋には反対だったのではないでしょうか。

しかし時代の波には逆らえず、
神社の軸線上を朱色にすること、そして恐らくは、社殿より高い位置を車が走らないこと
などの条件で、しぶしぶ架橋を認めた・・・といったところでしょうか。
これはまあ、私の憶測も入っているので話半分に聞いておいてください。


でも、波上宮でなくとも、
「神社の裏に道を通すな」とか、「神様を見下ろすとこに家建てるな」とか、よくある話です。
境内(聖域)の中うんぬんではなく、その外でさえいろいろと問題が生じるのです。

信仰心の薄れてきた現代においてもこのような状況です。
いわんや古代においてをや。


話を戻しますが、今回のテーマは
グスク時代の支配者(按司)が城を築いたのは、
聖域の内か、外か

です。

両者の違いが、信仰上、きわめて重要な問題であることは、
もうお分かりいただけることでしょう。


・・・


わかって。。。


(つづく)


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| 聖域に君臨するグスク支配者 | 2010.09.01 Wednesday 12:36 | comments(4) | trackbacks(0) |
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