琉球の城(グスク)にはなぜ聖域が存在するのか?本土出身の神主が聖域に君臨した琉球支配者の思想に迫る。
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| - | 2012.10.28 Sunday | - | - |
エージナ島・・・「グスク」じゃないんだけどな〜
ほとんど更新もしない当ブログ、当然ながらアクセス数もそう多くはないのですが、何かしらの検索で閲覧してくださる方もいらっしゃいます。
中でも多い検索キーワードは、「グスク」や「安須森御嶽」、「沖縄考古学会」などですが、負けず劣らず多いものに「エージナ島 グスク」があります。



【エージナ島の遠景(南東から撮影)】

糸満市名城の海にひっそりと佇むあの小さな島がこれほど検索されるのは、近年、『海東諸国紀』や『琉球国図』に描かれている「阿義那(あぎな)之城」はエージナ島のことであるという指摘がなされたからでしょう。
この説に対し私は、当ブログの記事「エージナ島はグスクか?」で、「エージナ島=城」というには超えなければならないハードルがいくつかあることを、グスク論争のグスク聖域説などを例に指摘しました。

仮に、表面観察で島から土器等の遺物が採集されたり、城壁の可能性がある石積みが発見されたり、攻めにくそうなジグザグの登り道が見つかったとしても、それが城の痕跡であるとするのは単なる主観に過ぎません。

採集される遺物は祭祀に使われたものであるかも知れないし、神社や寺のような場でも石積みはありますし、山道を上りやすくするためにジグザグにするのは極めて当たり前の行為であり、表面観察で得られる情報は、単独でも総合でも「エージナ島=城」とする根拠にはまるでならないのです。



まあ、これらのことは上述した過去記事ですでに述べたことなので、ここで繰り返す必要はないのですが、今回はひとつの危惧があって再び書き込むことにしました。
その危惧とは、「エージナ島=グスク」という見解についてです。


エージナ島が城であるとは断言できないまでも、その可能性は十分にあることは過去記事でも述べましたが、それは「エージナ島=城」であって、「エージナ島=グスク」では決してありません

その根拠は、まず、波上宮が別名「ハナグスク」と呼ばれているように「グスク=城」でないことがひとつ、
そして、次が重要なのですが、エージナ島が「グスク」と呼ばれていた形跡が見当たらないからです。

エージナ島に当たるとされる「阿義那(あぎな)之城」、これは、『海東諸国紀』・『琉球国図』において、阿義那之「グスク」ではなく、明らかに阿義那之「城(しろ)」と書かれています。
対して、中城グスクや伊計グスクなどは、「中具足城」や「池具足城」と記述されています。
つまり、2地図の中で、「具足(グスク)」と「城(しろ)」は使い分けられているのです。
これは、2地図の描かれた時代に、エージナ島が(仮に「エージナ島=阿義那之城」とした場合)「グスク」と呼ばれていなかったことを意味します

これは非常に重要なことで、今でこそ皆「城=グスク」と意識していますが、それがいつの時代のことからなのか、はっきりしないのです。

明らかな城を「グスク」と呼んでいない史料は他にも存在します。
琉球最古の歌謡集として有名な『おもろさうし』。
「ぐすく」という語はその中に多く見られるにも関わらず、今帰仁グスクや勝連グスク、浦添グスクなど、比較的大型のグスクは単に「今帰仁」・「勝連」・「浦添」とだけ謡われ、「ぐすく」と呼ばれることがありません。
これも、古琉球において、単純に「城=グスク」ではなかった可能性を示唆しています。


仮にエージナ島が城であることが判明し、「阿義那之城」そのものであったとしても、それはあくまで「城」であり、「グスク」ではありません。

なんの根拠もなくエージナ島を「グスク」と呼ぶことは、先学のグスク研究に対する認識不足です。
これから先、エージナ島を調査する研究者は、例えカギ括弧付きであるにしろ、エージナ島を「グスク」と呼ばないことを願って止みません。
| グスク見聞録 | 2012.06.06 Wednesday 23:28 | comments(11) | trackbacks(0) |
渡し船と歴史と私

23日の休日、義父に誘われ、初めて渡し船で防波堤に釣りに出かけた。
私は、釣りはまったくの初心者だが、義父は地元でちょいと有名な達人。
「何も持ってこなくていいよ」の一言に甘え、
義父の竿で、義父の仕掛けを義父の指示するポイントに足らし、
唯一持参したクーラーボックスに大量の魚を詰めて帰った。


【釣果】

義父によると、これでも今日は少ないというのだから、笑ってしまう。
非常に楽しかったが、まったく自分で釣った気にならない(笑)


ところで、渡し船で、興味深い光景を目の当たりにした。
小さな船に乗船する客は、我々以外にもたくさんいたのだが、
その一般客が、他客の荷物の積み下ろしを当然のように手伝うのだ。

当然のようなのは、手伝ってもらう側も同様。
何も言わずに船上の一般客に荷物を預け、運んでもらって、礼も一切ないのだ。

このような態度、普通の生活の中ではかなり無礼に当たるだろう。
しかし、その渡し船の中では、手伝う・手伝われるの関係が、
礼無しで当然のこととして成立していたのだ。

私は、一見チンピラ風なお兄さんたち(お前が言うな)が、率先して動く姿に感動した。
いや、それ以上に、こんな小さな船の中でさえ、人間の素晴らしい協調性・社会性が見られたことに感激したのだ。

「そんなことで感激するか?」

と言われるかも知れない。
確かに、大半の人にとっては、取るに足らない小さな出来事だろう。
しかし、私は、曲がりなりにも歴史研究に携わっているので、こんなことを考えてしまう。


もしも、この小さな船での出来事が、何かに記録されていたとしたら、
300年後のマニアックな歴史研究者は、その古文献をめくり、

「300年前の渡し船の中には、こんなコミュニティが成立してたんです〜」

などと、嬉々として語るのではないだろうか。

何百年も前の普通の生活は、現代人にとって大きな謎・ロマンであり、
数百年後の未来人にとって、我々の小さな日常は、価値ある歴史の1ページであるはずなのである。



ところで、過去の小さな日常が、歴史解明の糸口につながる例は少なくない。

あれは、沖縄県浦添市小湾について書かれた『小湾字史』だったと思うが、
その昔、尚家(王族)の別邸が小湾にあり、それについての貴重な情報が、
当時いたずらで敷地に侵入した子供(もちろん今はおじいちゃん)から得られたというのだ。

悪事は時代を超越する。

他にも、かなり面白かった例を上げれば、兵庫県に圓教寺という、映画『ラストサムライ』のロケ地としても有名な寺があるのだが、
お堂への落書きが酷い所があり、そこには
「らく書は 末代の 恥」
と立札されていた。ところが、さらに奥に行った堂内の柱には、
「羽柴小一郎(秀長)の家臣の落書あり」
と書かれていたのである。
たくまの旅日記 「円教寺〜末代の恥編」 参照)

現代の恥が、末代には貴重な資料となる可能性を示唆する好事例である(笑)。


「現在の価値観は、超時間的に考えると、必ずしも正しいとは限らない」


誰もが口にする言葉だが、深いところでそれを理解するのはやはり難しい。
特に、感情的になったりすると、正しいのは自分と思いたくなるのが人情だ。

昔、歴史研究の同僚と口論になり、「100%お前が悪い」と言われたことがある。
「100%」という言葉を使うあたり、こいつは歴史家としての資質に欠けているなんて当時は思ったりもしたが、
今考えれば、その自分の価値観も、同様に「100%」だったのだろう。

若気の至りで恥ずかしい過去だが、それさえも、時間は温かく包み込んでくれる。
弱くて情けない自分を、超時間的に赦してくれる。
そう考えると、ちっぽけな自分が、ちょっとはましな人間になった気もする。


取りとめのない話になったが、小さな船の小さな出来事が、小さな自分の励みになったとさ。
めでたしめでたし(笑)

| いろいろ | 2011.11.24 Thursday 01:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
御嶽信仰は自然崇拝 ―斎場御嶽―
御嶽信仰は丘陵頂部をもっとも神聖視する信仰(=自然崇拝)であることを琉球開闢の九御嶽(『中山世鑑』)を例にご紹介するシリーズ。
今回は4つ目の御嶽、「斎場嶽」です。
(グスクの頂部聖域については、過去記事「グスク聖域の証明」シリーズ参照。)


「斎場嶽」とは、知念半島の東端に位置する斎場御嶽(せーふぁうたき)のことです。
斎場御嶽は世界遺産にも登録されているので、ご存知の方も多いことでしょう。

斎場御嶽は、首里王府が非常に重要視した御嶽で、神女の最高位である聞得大君(きこえおおきみ)の即位儀礼が執り行われた聖地でした。
聞得大君は他界のセヂ(霊力)を自分の身体に宿すことで神女となるのですが、そのセヂは、知念半島の東の海上の神の島「久高島」から発せられ、斎場御嶽に降りてくると観念されていました。

余談ですが、神女はしばしば「巫女(ふじょ)」とも記述されるため、本土人的には神社の巫女(みこ)さんのようなイメージを抱いてしまいがちですが、まったく性格が異なります。
人間を代表して神に取り次ぐ神主のようなものともまた違います。
他界のセヂ(霊力)を身体に宿した神女は神そのものであり、自身が崇拝の対象ともなっていたのです。
人が神の依代となる神事は本土でも珍しくはありませんが、近代に至るまで王府によって組織化・制度化されて存続した点に、沖縄の神女の独自性があると言えるでしょう。


さて、聞得大君の即位儀礼が行われた斎場御嶽ですが、ここもまた、岩山が聖地の核となっています。


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【自然が創り上げた巨岩のトンネル】


上の写真は斎場御嶽で最も有名な景観ですが、この三角トンネルを潜り抜けたところに三庫裡(サングーイ)と呼ばれる場所があり、現在はそこに3つの拝所が見られます。


s-P1790453.jpg
【トンネルから見た三庫裡】


3つというのは、トンネル側からみて左・右・正面の3ヶ所なのですが、この内、正面のものは比較的新しいものだと考えられているようです。

一方、左・右2つの拝所は、聞得大君の即位儀礼において重要な役割を担っていました


トンネルを潜って左にある拝所は、久高島からセヂ(霊力)を招くための遥拝所です。


s-P1790455.jpg
【久高島への遥拝所】


遥拝所なだけあって、眼前に神の島、久高島が見えます。


s-P1790462.jpg
【三庫裡から望む久高島】


この島から聞得大君に宿るセヂ(霊力)が斎場御嶽に飛んで来るわけです。
では、そのセヂは、いったい斎場御嶽のどこに降りてくるのか

それが実は、斎場御嶽で最も高い岩山の頂部であると考えられているのです。


その岩山は、三角トンネルの真上に当たります。
トンネルを抜けて右にある拝所は、岩上に飛来したセヂに、下まで降りてきてもらうためのものなのです。


s-P1790467.jpg
【右にある拝所 岩山の麓に香炉が備え付けられている】


s-P1790464.jpg
【拝所直上の絶壁 この上にセヂは飛来する】


斎場御嶽もまた、丘陵の頂部に特別な意味を持たされた御嶽であることは間違いないでしょう。



ところで、まったく話は変わりますが、世界遺産に登録されて以来、斎場御嶽を訪れる観光客が増え、そのマナーのあり方が問題になっているようです。
沖縄の人々にとって斎場御嶽は今もって神聖な場です。
観光客の存在が、沖縄人の神事の差支えになることがしばしばあるようなのです。

神社で例えると、神主が社殿で祝詞を奏上しているときにカメラ持った観光客が社殿をウロウロしているようなものですよね。
そりゃ、確かに、邪魔だ。(--;

先日の新聞で、「強制ではないが、沖縄の聖地は男子禁制であることをもっと知ってもらう必要がある」というような発言もありました。

おお・・・耳が痛い。。。

観光客を受け入れた時点で自ずと生じることは分かっていた問題で、解決策を見出すのもなかなか難しいですが、私自身は、敬虔な気持ちを持って調査させていただくことを忘れないようにしたいと思います。


しかしまあ、観光客のマナーもさることながら、メディアによる聖地の扱いも甚だ問題である気がしてなりません。
「沖縄のパワースポット♪」なんて銘打っておいて、最後の最後に「御嶽は神聖な場ですから・・・」なんて取って付けるふざけた番組も見かけます。
沖縄人自身が自分たちの聖地をどのように活かしたいのかという根本的な問題があるような気がします。



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| 御嶽 | 2011.05.13 Friday 11:50 | comments(6) | trackbacks(0) |
知念グスクの「古グスク」と「新グスク」

前回の記事「御嶽信仰は自然崇拝 ―知念森―」でお話ししたように、南城市知念にある知念グスクは、「古グスク(コーグスク)」・「新グスク(ミーグスク)」と呼ばれる2つ郭から成っています。
「古」・「新」の名が表わすように、2つの郭の成立には時代差があると言われていますが、そのひとつの証拠としてよく取り上げられるのが城壁石積みの技術差です。


まず、新グスクの石積みですが、下写真のように、石灰岩を多角形に加工し亀の甲羅のように積み上げていく「相方積み」(亀甲乱れ積み)という技法で積まれています。


s-P1930025.jpg
 【知念グスク 新グスクの石積み】


一方、古グスクの城壁は、石灰岩を加工することなく噛み合わせていく「野面積み」という積み方で築かれています。


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【古グスクの城壁(外面)】


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【古グスクの城壁(内面)】


相方積みと野面積みを比較すると、野面積みの技術の方が古くから存在し、
相方積みは技術的に進化した比較的新しい積み方であると考古学の中では説明されています。
つまり、知念グスクに伝承される古グスク(野面積み)と新グスク(相方積み)は、石積み技術の面からも説明がつくと考えられているのです。


ただし、このような説明に疑問がない訳ではありません。

野面積みが古くに成立した技術であったとしても、それが相方積み成立より後の時代にみられなくなった訳ではありません。
玉城グスク一の郭の城壁の内面は野面積みですが、四角く加工された切石が野面の中に混ざっていたりします。(混ざっているのは「布積み」用の切石)



【玉城グスク一の郭城壁内面】


つまり、玉城グスクの野面積みは、石を加工する技術が成立して以降に積まれた(積み直された)可能性が高いのです。(過去記事「グスクの石積み調査」参照。)
とすれば、知念グスクの城壁も、野面、相方という技術の違いだけで郭の新旧を論じる訳にはいきません

実際、知念グスクの古グスク城壁(野面)と新グスク城壁(相方)の接合点をよくみてみると、野面積みが相方積みの上に乗っているのがわかります。
少なくともこの部分だけは、野面の方が新しいことは間違いありません。


s-P1790607.jpg
【相方積み(新技術)の上に乗る野面積み(旧技術)】


結局のところ、地中に埋まっている石積みの根石などならともかく、
表面に見える石積みはいつの時代に積まれた、あるいは積み直されたものか分からないので、
グスクの新旧を見極める資料としては極めて扱いづらいということなのです。


しかしながら、石積みから古グスクと新グスクの新旧関係が明らかにできないからといって、新グスクが古グスクより先に築かれたとも考えにくいと個人的には思っています。
グスクは、丘陵頂部の聖地とセットであるのが一般的であり(過去記事「グスク聖域の証明」シリーズ参照)、知念グスクの頂部聖地も古グスク側にあるからです(過去記事「御嶽信仰は自然崇拝 ―知念森―」参照)。

新グスクが古グスクより先に築かれたはずはない、しかし、同時であった可能性は残ります。
どちらにしろ、この問題の解決は今後の調査を待つしかないでしょう。



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| グスク見聞録 | 2011.04.14 Thursday 21:49 | comments(2) | trackbacks(0) |
御嶽信仰は自然崇拝 ―知念森―

御嶽信仰は丘陵頂部をもっとも神聖視する信仰(=自然崇拝)であることを琉球開闢の九御嶽(『中山世鑑』)を例にご紹介するシリーズ。
今回は3つ目の御嶽、「知念森」です。
(グスクの頂部聖域については、過去記事「グスク聖域の証明」シリーズ参照。)

知念森も開闢九嶽のひとつですが、前回の「今鬼神のカナヒヤブ」同様、グスクの中にあります。(カナヒヤブについては過去記事「御嶽信仰は自然崇拝 ―今帰仁グスクのカナヒヤブ―」参照。)
知念森があるグスク、それは、知念グスクです。
あるいは知念グスク全体が知念森だったかも知れません。
しかし、聖域の中心は、やはり知念グスクの丘陵頂部にあったと考えられます。


(以下、写真をいくつか載せますが、異なる時期に撮った写真を使用していますので、草木の茂りや諸施設に若干の違いがあります。ご注意ください。)


南城市知念にある知念グスクは二つの郭が東西に隣り合う形になっており、
石灰岩丘陵上に築かれた東の郭が「古グスク(コーグスク)」、
その丘陵の西側麓に造成された平場が「新グスク(ミーグスク)」と呼ばれています。

知念グスクの城門は新グスクにしかありません。


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【知念グスク 新グスクの城門】


城門をくぐると、新グスク郭内は下写真のように全体が平場になっています。


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【新グスク郭内】


新グスクから東に目をやると、樹木が生い茂る古グスクの丘陵が隣接しています。


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【新グスクから見た古グスク】


知念グスクの頂部拝所(イベ石)はこの古グスク中、丘陵のもっとも高い位置にあります。


s-P1830092.jpg
【知念グスク頂部のイベ石】


城内にも関わらず、埋められも削られもせず今なお拝まれる丘陵頂部の岩。
知念森の核心は恐らくここにあります。
開闢九嶽のひとつ知念森もまた、頂部がもっとも神聖視される聖地なのです。



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| 御嶽 | 2011.04.13 Wednesday 11:51 | comments(4) | trackbacks(0) |
「日本人」のあり方
最近、「日本人は素晴らしい!」という声が、海外のあちこちから聞こえてきます。
言われる側の日本人には、

「やっとわかってくれたの?」

「別に、ふつーにしてるだけなのに」

など、さまざまな反応がみられますが、気分を害している人はほとんどいないことでしょう。

私などは、日本の文化・伝統、日本人の気質にとても誇りをもっているので、
海外からの評価を受けて「それみたことか!」という気分でした。


みなさんはどうか分かりませんが、私の育ってきた環境はどうも欧米に対してコンプレックスをもつ雰囲気が蔓延していまして、留学生や帰国子女という肩書をもっているだけで「すごい」と評価されたり、英語の授業で「わかりません」と答えたら、欧米かぶれの先生に「アメリカでは『わかりません』なんていう生徒はいない」と説教されたり。
海外に滞在した経験の乏しい私などは、なんで海外に行ったことがないくらいでこんなに自分のことを情けなく思わないといけないんだろうと感じたものです。

しかし、いま、チャンスが来ています。
日本人が、もう一度日本人を見直し、自信を取り戻すチャンスが。
未曾有の災害から一丸となって復興していく中で、日本人の新たなアイデンティティが築き上げられていくことでしょう。


ところで、このような流れを歓迎する一方で、私には、ふたつの危惧があります。

ひとつは、日本人の自信が、「外国人よりも優れている」といった相対的な自信に陥ってしまうことです。
海外の日本人への評価は、「自分たちの国であれば暴動が起きているはずだ」といった形でなされています。
自国民と日本人を比較して、日本人を讃えてくれているわけです。
しかし、讃えられる私たち日本人が、外国人よりも優れていると考える必要はありません。
多少の強盗があっても暴動という程にはならない。これは日本人にとっては普通のこと。
これまで、「個性をつぶす」と酷評されていた全体主義的日本社会は、非常事態においてはこれほどの統制を発揮する側面をもっている、単純にそれだけのことなんだと思います。
海外からの賛辞で取り戻すべき日本人の自信は、海外より優れているという点ではなく、個人主義的な面で欧米より遅れているからといって、日本社会そのものが劣っているわけではないという点にあるのではないでしょうか。


いまひとつの危惧は、加熱する「日本人」というアイデンティティが、日本に住む個を抑制してしまいすぎることです。

日本社会が、その社会の一員に、「日本人」であることを強要してきたという歴史的事例は数多くあります。
現在も「日本人」の一員である琉球人やアイヌもその被害者と言えるでしょう。

「日本人」の強要による悲劇は、琉球やアイヌといった明らかに日本の外にいた民族に限らず、本土に住む日本人のなかでもありました。
有名な例を挙げれば、白虎隊の生き残り飯沼貞雄さんの件があります。

白虎隊は、ご存知のように、十代の若者で構成された会津藩の一部隊で、攻め寄せる明治新政府軍と戦いました。
健闘むなしく敗れた白虎隊は撤退するのですが、飯盛山ですでに城が落ちているのを目撃し、全員その場で自刃してしまいました。
飯沼さんは、喉を刺し気管に穴が開いたにも関わらず、奇跡的に救われた白虎隊の生き残りでした。

その後、白虎隊は、軍国主義に向かう日本において、藩のために命を捧げた忠臣、引いては「日本人」の鑑と讃えられるようになりました。
そのような時世の中、飯盛さんを非難する声が出てきます。
白虎隊の隊員がみな自刃して果てた中で、生き残った飯盛さんは卑怯者というレッテルを張られたのです。
当時の社会の「日本人」はこうあるべきという一般通念が、飯盛さんという個を迫害したのです。
たくまの旅日記「忠臣白虎隊」参照。)


近代の日本のこのような雰囲気は、現代でも失われていないと私は感じます。
海外の紛争地域で被害に遭った日本人に向けられる自己責任論、競技後のインタビューで執拗にみなに感謝する(させられる)アスリートたち。
近代日本にみられた社会と個人との距離感は、潜在的に今も残っているのではないでしょうか。

もちろん、こうした日本・日本人のあり方を一概に悪いとは言いません。
むしろ、私は、冒頭で述べたように、この全体主義的な性格こそが、日本が世界に誇る長所だと思っています。

大災害に立ち向かい一致団結する中で、恐らく日本人は、より全体主義的側面を強めていくでしょう。
個々が全体のために我を捨て貢献する社会、日本人であるからこそ築き上げれる素晴らしいものです。
あとは、その全体が、個人にどれだけ寛容でいられるかです。
飯盛さんのような被害者を二度と出さないためにも、より進化した日本的全体主義的社会が実現されることを願って止みません。



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| いろいろ | 2011.04.07 Thursday 11:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
海外から被災地へのメッセージ

遠く離れたヨーロッパでも、・東北関東を応援する声があります。

「フランス人からのメッセージ」
http://terre-ciel.jugem.jp/?eid=80

「欧州から呼びかける日本代表達」
http://terre-ciel.jugem.jp/?day=20110315


どちらもの記事も、在仏日本人takezoさんのブログ「スピリチュアルだがマテリアルな日々」のものです。

| いろいろ | 2011.03.16 Wednesday 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
御嶽信仰は自然崇拝 ―今帰仁グスクのカナヒヤブ―

御嶽信仰は丘陵頂部をもっとも神聖視する信仰(=自然崇拝)であることを琉球開闢の九御嶽(『中山世鑑』)を例にご紹介するシリーズ。
本日は2つ目の御嶽、「今鬼神のカナヒヤブ」です。

「今鬼神」は今帰仁(なきじん)のことで、カナヒヤブの御嶽は今帰仁グスクの中にあります。

民俗学的に、グスクは、御嶽とその礼拝所を含めた聖域のことと考えられています。
つまり、御嶽とグスクは信仰的には大差ないということです。
琉球開闢の九御嶽の中に入れられるほどのカナヒヤブの御嶽がグスクの中にあることも、民俗学の見解に矛盾しません。

このブログではグスクと御嶽を別のカテゴリーにしているので、グスク内の御嶽をどちらに入れるか思案のしどころなのですが、今回のカナヒヤブに関しては九御嶽のひとつとして、「御嶽」に分類しておこうと思います。


さて、繰り返しますが、カナヒヤブは今帰仁グスクの中にあります。
今帰仁グスクの中のどこにあるかというと、これが実は、グスクの頂部にあるのです。


現在、今帰仁グスクの麓には、グスクの模型がありますが、


s-P1820451.jpg
【今帰仁グスクの模型】


カナヒヤブの御嶽は、頂部の主郭と御内原(おうちばる)という郭の間にあります。


s-P1820455.jpg
【グスク模型の頂部】


上写真中、左側手前が主郭、右側手前が御内原。その間にある小さい石積み囲いがカナヒヤブです。
模型からわかるように、カナヒヤブの御嶽の石積み囲いの中では、自然岩が祀られています。
下写真が、実際のカナヒヤブです。


s-P1820601.jpg
【カナヒヤブの石囲い】


s-P1820603.jpg
【カナヒヤブで祀られる自然岩】


このように、「今鬼神のカナヒヤブ」は丘陵頂部の岩を拝む御嶽であり、丘陵頂部をもっとも神聖視する御嶽の典型的なものであるといえるでしょう。


ちなみに、今帰仁グスクの按司(支配者)は、カナヒヤブのすぐ隣の主郭に君臨していたと考えられます。
模型をみてもわかる通り、主郭の大型建物の基壇とカナヒヤブはほぼ同レベルにありますが、カナヒヤブが自然の状態で(自然岩として)今のレベルにあるのに対し、主郭は、土を盛ることでこの高さに造成されていることが発掘調査で明らかになっています。
今帰仁グスクの支配者は、カナヒヤブの御嶽の神と同レベルに君臨してみせることで、太陽神「てだ」と化した自らの神威を誇示したのです。(「聖域に君臨するグスク支配者」シリーズ参照)



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| 御嶽 | 2011.03.09 Wednesday 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
運命の出会い

私、ずっと探していました。

でも、まさか、本当に出会えるとは・・・
いや、よしんば出会ったところで、お付き合いすることは適わないだろうと思っていたのですが・・・


これが、今日めぐり合った運命の方です。


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その名も「ジャワビロウ


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「ビロウ」と言えば、ご存知の方も多いと思いますが、沖縄では「クバ」と呼ばれる植物です。

沖縄においてクバは非常に神聖な木で、琉球王国時代から神の降臨する神木として崇められることもしばしば。
御嶽の名前が「クボウ(クバ)御嶽」だったり、祀られる神名が「コバ(クバ)ヅカサ」だったりするところもあります。

そのクバの写真がこれ。


s-P1010281.jpg


現在の沖縄では、クバの木は街路樹としてよく見かけられます。

私このクバが大好きで、観葉植物として自宅に欲しかったのですが、なにせこの大きさ、とても私の狭いアパートの一室では納まりきりません。
よってほとんど諦めていたのですが、今日、浦添市の58号線沿いのメイクマンに寄ってみると、愛しのあの方にそっくりで、しかもあの方よりも小柄な方がいらっしゃるではありませんか!


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【↑あの方にそっくりなお方】

「ジャワビロウ」という名からすると、あの方のいとこかはとこか分かりませんが、とにかく親戚であることは間違いなさそう。
即購入いたしました。

誤って神様が降臨してきますように♪


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| いろいろ | 2011.03.02 Wednesday 23:49 | comments(4) | trackbacks(0) |
御嶽信仰は自然崇拝 ―安須森御嶽―

前回の記事(「御嶽信仰は自然崇拝」)で、丘陵頂部をもっとも神聖視する信仰(=自然崇拝)はグスク以外でもみられることをお話ししました。
その具体例として、まずは御嶽をご紹介します。

もっとも、グスクは、御嶽とその拝所を包含した聖域だと考えられているので、御嶽とグスクは信仰的に同質のものと言えるのですが・・・

さて、一言に御嶽といってもその数は大変なもの。
ですので、ここでは、沖縄でもっとも有名な琉球開闢の九つの御嶽の状況をお話ししたいと思います。


琉球の正史『中山世鑑』の巻一には、アマミク(アマミキヨ)という神が天上から沖縄に降臨し御嶽を創造したことが記述されています。
中でも、アマミクが最初に創ったとして特別に挙げられているのが前述した九御嶽です。
九御嶽をアマミクが創造した順に挙げると次のようになります。

「辺戸の安須森」(国頭村)
「今鬼神のカナヒヤブ」(今帰仁グスク内)
「知念森」(知念グスク内)
「斎場嶽」(斎場御嶽)
「藪薩の浦原」(南城市玉城)
「玉城アマツヅ」(玉城グスク内)
「久高コバウ森」(久高島)
「首里森」(首里城内)
「真玉森」(首里城内)

今回は「辺戸の安須森(へどのあすむい)」の頂部の状況をご紹介します。



安須森御嶽は、沖縄本島最北端、辺戸岬の南に位置する丘陵です。



 【辺戸岬からみた安須森御嶽 凸凹の特徴的な山全体が安須森御嶽】


安須森御嶽の登山口は、写真凸凹丘陵の左(東)側の麓にあります。



【麓の登山口】


安須森御嶽は山全体が聖域となっているので、山を拝むための拝所が麓にあります。
登山前にここで手を合わせないと罰があたります。きっと。


絶壁のような登山道を登っていると、中腹にもいくつかの拝所がみられます。



【中腹の拝所1】



【中腹の拝所2】


そして、その頂部には、下写真のような祠が設けられています。



【頂部の祠】


安須森御嶽は非常に凸凹した丘陵なので、頂部と呼べる地形は他にもありますが、そこにもやはり拝所が設けられています。



【連なる複数の頂部】



【他の頂部の祠】


このように、安須森御嶽は、頂部がもっとも神聖視されている御嶽の典型的な例です。
中腹に拝所がないわけではないですが(グスクも然り)、信仰上、頂部が最重要視されていたのは間違いないでしょう。


(つづく)


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| 御嶽 | 2011.02.23 Wednesday 12:15 | comments(2) | trackbacks(0) |
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